脱SEして文筆家になった人

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脱SEして文筆家になった人

四ツ葉真生(よつば まお)の過去ログ。twitter共に不定期更新。

資格のススメ

03執筆-2013b 03執筆

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Self Review

大人の仲間入りをしてしまったため、オリジナルエッセイとしては以降、一人称を「私」とし始めた起点作。

あわせて、私の今までを表現した作品。

だがむしろ主張としては、現代社会への批判、そしてどう生きていくか、というものが含まれている。

それが上手く書けたかどうかは別として、個人的な満足感を久しぶりに感じた文章。

いずれはこのテーマをもっと深く掘り下げたものを書いてみたい。

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資格のススメ

まずは最初に私が所持している資格の数を数えてみよう。……ざっと80種類ほど。細かいものも含めれば100個をゆうに越えるだろう。

泣く子も黙る国家資格から民間資格まで。やたらと小難しいIT系、うさんくさい団体の粗雑なものなど多種多様だ。

この所持数を話すと大抵の人はまず驚く。

そりゃそうだ。受験は無料じゃない。そんな無駄遣いをする人は身近にはいないのだろう。

さらには「その頭脳を分けて」などとお世辞を頂戴することもある。頭が良いことと資格を取ることはイコールではなく、要領さえよければ誰もが出来ることだと思うのだが、このネタだけでだいぶ人の見る目は変わる。

私は俗に言う“資格マニア”の端くれなわけだが、こうなったのはいつの頃からか。

幼少から体が弱く学校を休みがちで、授業についていけないことが多々あったのはコンプレックスとしてあっただろう。そのため、一時期グレて勉強から逃避した時期もある。

だが、「学ぶ、学び続ける」ということに対する強い情熱だけは忘れたことが無かった。誰にも悟られぬよう、寝る間を惜しんでただ必死に独りで学習していたものだ。

それゆえに、社会人を過ぎた頃だろうか。勉強する(過程)→資格を取る(結果)、という図式に一種の陶酔感を覚えるようになっていった。とはいえ、当然今まで“資格道”を順風満帆に歩んで来たわけではない。

あと1点に泣かされたことは何回もあるし、資格を取るということだけが目的化していってしまい、受ける試験が無いと妙な緊迫感に追いつめられ、ノイローゼのようなものになることもしばしばあった。

それらを乗り越えてようやく現在の境地に辿り着く。すなわち、知識を蓄えることそのものを楽しむということ。

私はある時から、ずっと考えていることがある。――この私が世界の中で私として存在している――証明は一体なんだろう、と。

所有している金か地位か、それとも周りの友人や家族か。おそらくそのどれも正解ではないだろう。もちろん霊や魂などという神秘主義を言うつもりもない。きっと絶対的な答えの無い問題なのだ。

だが私は思う。私とこの世を繋いでいてくれるもの、それはもしかしてこの頭の中に詰まっているのではないだろうか。

自分の人生で今まで培い、育んできた記憶、それらが私を私として生かしてくれているのだと思う。そしてその構成要素の多くには、資格取得までに至った知識と思い出が溢れているということは言うまでもない。

つまり私が資格を取る動機とは、自己の存在確認の一翼であり、誰かに自慢したいとか、スキルを高めたいということとはかなり乖離しているのだ。

だから、今まで私が出会った批判的な意見で「そんなに資格取って何の得になるの?」という問いは私には通じない。

生きるということと同義なこと、人において「息をする」というものに値することに対して、いったい何の理由がいるというのか。

さて、最近巷では少子高齢化だとか、若者の元気が無いなどとマスコミが無駄に吹聴している。(単にデフレ不況だからなのだが)

周りを見渡せば、仕事を退職し年金暮らしの金もあり暇もある老人たち、職もなく金もないが暇はある若者たちがで大賑わいだ。それらの集団の大部分が、以前は職業というもので世間と繋がっていた自分のアイデンティティを失っている様に感じる。

どうせやることがないのだろう? 自分探しの旅に飽きた老若男女の方々、貴方も資格道を進んでみてはいかがだろうか。様々な学びを通じるうちに、考える時間がいくらあっても足りない程の、私のような小賢しい哲学者モドキに変貌していくことだろう。

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