四方山話シリーズ。
「優柔不断」な人に困ったことがある人って結構いるんじゃなかろうか。
私もそういう人って好きじゃないんだよねぇ。
というかもちろん誰しも物事について深く考えることはある。でも少なくとも私の場合は、迷っている素振りは出来るだけ見せない。あ、迷ってるフリをすることはあるけど。
例えば私なら、命題がまだ明らかになっていない段階から考えている、そしてそのプロセスにおいてはめちゃくちゃ迷う。(つまりこの時点では自己から見て、優柔不断になっている)
しかし命題が発表された瞬間は、すぐに方向性くらいは即答できるような用意はしておいているつもりだ。なお、もちろんその場で直感的にひらいめいたことを解答とすることもある。
同じ決定力不足タイプでも二種類がいる
どうも最近なんとなく分かってきたけれど、今まで単に「優柔不断」=「物事を決められない(迷う)」性格だと認識していたわけだが、その「決められなさ」には結構その人なりの理由があるみたいだ。
ここでは「昼に何食べる?」を例にとってみよう。
・パターンA. 決めるもの自体が、当人にとって「一世一代」タイプ。
つまり「昼ご飯」というもの自体が、当人にとってすごくウェイトの大きいもので、かつ慎重に決定したい場合に優柔不断になる。
この思考は普段は優柔不断ではなくても、命題によって誰もが陥りやすい。
例えば和食か洋食か、まぁ中華は無しだな、くらい選択肢を絞ってくれるとありがたいわけだが、当人にとってはそれすら不用意に決定しがたい重大な選択というわけだ。
対して、
・パターンB. 決め方自体が超絶へたくそなタイプ。
現在の自分のお腹の減り具合、お財布事情、そもそも好物を重視するかどうか、など選択肢でいかようにも絞り込めるはずなのに、その「消去法」という手法を是としない場合に優柔不断となる。
仮に米かなー、とくればオムライスね!と言えるし、麺かなーとなればパスタね!となるわけだが、大抵こういった人の場合、ただ純粋にお昼に「オムライス」or「パスタ」どちらが良いか?という選択を頭の中で繰り返している。
誰かが決めると不満を言う人と言わない人がいる
前項のパターンAとB共にあることだが、誰かが勝手に決定してしまうと不満を抱く人がいる。(表面に不満を出す人、心の中で不満に思う人それぞれいる)
まぁこれはその人なりに理由があるわけだが、根底にある思想は、あくまでも決定権は自分にあり、かつ不満を言う権利もある、という考えなわけだ。確かに理解できないこともないけど、ねぇ。
対して、決定権を委ねてくれるような優柔不断タイプは表面上は無害と言える。
とはいえ結局常に誰か他人に物事を決めてもらっているので、いつまでも肝心の決定力が上がらないという悪循環に陥る。
まぁぶっちゃけ自分の納得のいくようにずっと考えた方がいいよ、って思うわけだが、どうも優柔不断なタイプってのは、ひいては集団生活が苦手な人と似通っていたりする。
なのでいつの間にかボッチ、というパターンになりかねない危険性もあるので、それが嫌なら結局トレーニングするしかないよなぁって話だよね。