よつまお

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一億二千万の歩き方

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Self Review

 

文芸賞応募用作品として仕上げたもの。

 

やや政治的な意思が含まれている。話題的にどうしても嫌悪を抱いてしまう人のために、いかにしてオブラートに包めるかというのが、自分自身の中でのテーマだったわけだが。

 

あまりそれを達成できたようには思えない。しかし自身の主張はわりと満足に書くことが出来たと思う。

 

ここにあえて書くことをしなかった私の政治や憲法に対する考え方を示すには、まだまだページ数が足りない。

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      一億二千万の歩き方

 

現代の新聞・テレビ・雑誌等のマスメディアにて、憲法の在り方について開放的に論じられるようになって久しい。

 

しかし私は、その論調にどうしてもプロパガンダを感じてしまわざるを得ないのだ。

 

社会人になって間もない頃だろうか。

 

私は日本国憲法を読んでいた。動機としては深く語るほどのことではないので割愛する。

 

まずは前文から粛々と読み進めていく……するといつの間にか事件は起こっていた。

 

私は気づかぬうちに涙していたのだ。いったいなぜなのか、そもそもどこを読んだときなのか、今でもそれすら分からない。

 

だが私はそのとき確かに泣いていたのだ。

 

現在の日本の憲法は、今でも絶えず物議が醸される代物である。

 

さらには憲法について語るとき、非常に残念なことに、左だの右だのという訳のわからないレッテル貼りを伴うこともある。

 

私は性格的に、イデオロギーと呼べるものを持ち合わせることは肌に合わない。

 

そんな私が涙を流した理由。それを自己分析するとひとえに、憲法を構成する言語の美しさに感動したとでも言えるであろうか。言葉の強さと言い換えることもできよう。

 

時と場合、状況や環境に従い、人それぞれ言葉の捉え方は変わってくる。

 

どうしてもフィーリング論になってしまいがちなのだが、それでも、言葉の与える深層的な印象は変化することがないと考えている。

 

例えばそれは、映画・音楽・文学等のエンターテインメントの分野にも当然適用される。

 

私は「誰か」あるいは「何か」によって持て囃されるものがあまり好きではない。

 

乱発される楽曲の大量生産的な詞、擬音のような単語が並べ尽くされるライト層の小説。

 

不本意ながら大人というカテゴリに片足を踏み込んでしまった私にとっては、どうしてもそれらに拒否感を抱いてしまうからだ。

 

とはいえその一方、なぜかそれらの中に関心をそそるものも現にあるし、両手離しで受け入れる人々も多数存在する。これは世代や趣向の差だけで説明できるのだろうか。

 

そこに理屈付けをするならば、これぞ言葉そのものの本質が発揮された結果といえよう。

 

人は何に共感・反対するのか、何に感動を覚え、何を嘲笑をするのか。

 

いわゆる〝流行りモノ〟には、特定の集団に一定の印象を与えるキーワードが必ず含まれている。

 

例えば幼児が憧れを抱く言葉は「正義」である。十代は「恋」、二十代は「夢」など。

 

これらのように限定的な誰かに影響を与えやすいキーワードを連想させる言葉や文字、あるいはフレーズそのものが「何か」に含まれていると、人はその「何か」に強い興味を示す。

 

商業マーケティングで考えれば、主婦層や老年層にうったえかけるには、安全または安心というキーワードは重要かつ不可欠である、というのは誰もが想像できるだろう。

 

意図的にしろ非意図的にしろ、そういったある意味の印象操作が、実は私達が考えているよりも遥かに多大に日常生活に浸透しているのではないかと思うのだ。

 

それらの印象付けを上手く使いこなすことで世論さえ創造することができ、あるいは日常レベルに置き換えれば、自身が人とコミュニケーションを行う際に、相手に与える印象をコントロールすることができるだろう。

 

これが言葉というものの機能であり、言葉の大切さ、恐ろしさでもある。

 

ここで憲法に話を戻して考える。

 

主張は多種多様で論戦は尽きない。それでも不変な事実の一つは、憲法内の言葉は確かに〝生きている〟ということだ。真剣に読み込めば、必ず誰しもが何がしかの感想を持つであろう文学作品とも言える。

 

現状をより良く定義するためには、矛盾や理不尽・不条理を一定量許容し、適切な妥協点を探りながら、言語の機能である美しさや強さといったイメージを表現していくことで、初めて強固な権威や威厳が構築される。

 

これは、文章における創作活動のプロセスと類似性があると言えるだろう。

 

従って、バランスを崩すような極端な対立や論じ方は確実に障害となるのだ。

 

全ての結論を懐疑し、全ての立場を中庸に。

 

議論と考察・葛藤の末に到達する中立は、中途半端とは一線を画する。

 

これが表現者が目指すべき領域の一つであり、個々に細分化され過ぎた現代人の価値観を繋ぐ、最も効率的な触媒になりうるのだ。

 

私達一人ひとりは言論人である。生きた言葉をより多く紡ぎ、既存メディアが起こす風に惑わされない信念を各個で作り上げていくことが、時代の困難に打ち勝つための万能な処方箋となることだろう。