ある日「シムラケン」が消えた。そしてそれは数多の先人たちと同様、一つの過去となった。
当時その報を聞いたときは、「まさか」とか「よりによって」を含め、なんとも形容しがたい複雑な心境だったのを今でも覚えている。
無常観、とでも言えば格好がいいが、例えるなら肉親が逝った時の衝撃と非常に近似の喪失感であった。
しかしなぜかネット上では「アフターシムラ」直後から、彼の残したコント等や人格に対し、タイミングを選ばない実に下らない批判もあふれていたために、私はしばらく目を閉じた。
それからだいぶ月日が流れ、そろそろシムラに対する論も出尽くしたであろうから、私なりに言葉を捻り出してみようと思う。
とは言いつつも、そもそも無数の芸能人を差し置いてシムラをそこまで尊敬していたわけでもないし、愛していたわけでもない。
あえて言えば、誰よりも一番に面白かった、とも思わない。
だから単に幼少の頃より慣れ親しんだ、という思い出補正の方が大きいのであろう。
とはいえ思い起こせば、『変なおじさん』の予定調和の中に表れるトラブルやアドリブの突発的笑い、
または『バカ殿様』におけるゲテモノミックスジュースや無意味なお色気シーンのような下品な笑いが好きだったのかもしれない。
あるいは突然セリフなしで始まり、シムラと女優などが謎の感動ドラマを繰り広げるシュールさが印象的だったのかもしれない。
ただ少なくとも、世代を超えて認知された稀有なコメディアンであったのは間違いなく、誰かの「教訓」になるべくして最期を迎えた、とは微塵も思いたくない程度の愛着はある。
この彼を失った、ということの大きさを、如何にして自身の中で言語化するかとなったとき、「シムラケン」は「孫悟空」であった、というイメージがなぜかしっくりきた。
尚ここでいうゴクウは、彼が実際に声をあてた『西遊記』ではなく『ドラゴンボール』の主人公の方だ。
あの物語の中での悟空は、ストーリー展開上「ナンバー1」ではあるものの、決して「最強」ではなかった。
しかし、未来の人造人間編ブルマによる評
『どんなにとんでもないことが起きてもかならずなんとかしてくれそうな そんなふしぎな気持ちにさせてくれる人』という表現はまさしく言い得て妙だ。
シムラはその言葉を自然と当てはめることができるくらいに「ヒーロー」であった。
別に何かから救ってもらったことはないけれど、どんな困難があっても「だいじょぶだぁ」と言って、再び必ず現れてくれる。
そんな無根拠で、信仰にも似た楽観があった。
だが、そのシムラでさえ「突然いなくなる」という無慈悲な現実を突きつけられた。
いや、初めから分かりきっていたことだ。だって彼は人間なのだから。
そして同時に、彼でさえそうだったなら私だって同様にただの人間なのだ、ということを改めて思い知る。
こんな簡単なことを、日々に押し流されて目を背けていただけだ。
何かが起これば容易に、運が悪ければ瞬時に命の灯は消える。誰もがそういうごくごく普通のヒトである。
これは日常に潜み、いまも刻々と万人に等しく砂時計の砂を落としている、確かな「根源的恐怖」だ。これを再び忘れ去るには、私にはまだ時間がかかりそうだ。(了)
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季刊 N.E.U.T.R.A.L より
コメディアン 志村けん に捧ぐ