ここ最近、Googleの検索精度が著しく低下していると思うのは私の気のせいだろうか?
より正確に言えば、「欲しいと思う情報と同一ジャンルではあるが『それじゃない感』がすさまじい」という印象である。
インターネットが普及し1人1デバイスとなって久しいが、近年まで長らく「検索力」が持て囃されていたものだ。
それは「大抵の『答え』はネット上のドコかに存在する」ゆえにまず検索する、という下地の元、「自らの探す情報に辿り着くためのテクニック」とでも言えようか。
私もどちらかと言えば、ネット黎明期よりそれを駆使していた方だとは思うのだが、求める情報にリーチできることが徐々に減ってきたように思う。
それは私が衰えた、時代から取り残された、とも表現できるが、より多大な影響を与えているのはGoogleアルゴリズムの存在だ。
ここでのアルゴリズムとは大雑把に言えば、膨大なデータから特定の情報を取り出すときに使われる「ルール」のことである。
例えば大昔では、ページ内に「Google」とひたすら何個も書かれているサイトが、「Google」というキーワードで検索すると上位に出てくるようなものだった。
そのためそれを利用して、いわゆる「HTMLタグ」内に自ページに有利な単語を組み込むことで、検索順位を上げようという小手先の手法もあった。
そこでGoogleは定期的にアルゴリズムの「アップデート」を施していたわけだが、それによって悪しき業者が駆逐されるだけではなく、何ら罪のない個人ホームページ運営者やブロガーの多くも泣きを見てきたことであろう。
そういった個人や業者の「検索順位を上げたい」という欲求と、Googleの「より的確な情報を上位に表示させる」ポリシーはいつもイタチごっこを繰り返していた。
そんなアルゴリズムアップデートだが、2019年~2020年において大きな変革が起こっている。それが冒頭に言及したように「それじゃない感」を覚える情報ばかり表示される問題だ。
よく言えば権威性・信頼性のある情報が、悪く言えば当たり障りのない情報しか出てこない。
もちろん今までも「まとめサイト」や特定の「ブログサービス」ばかり上位表示された時期も多々あったが、そのたび各ユーザーが培った「検索力」を発揮させることで、ノイズを排除し情報に辿り着くという当たり前の作法があった。
それは言い換えればネットリテラシーの高い「情強」が、さらに効率的な情報収集が可能なことで、より「情強」になっていくシステムということだ。
確かにこれだけ聞くと、決して公平ではない。であるからこそ、Googleが行っているアップデートはある意味正しい。
誰がどのように検索しても、複雑なアルゴリズムがそれを判定し、個々によりマッチする、より正しい情報を表示させる。一見、確かに便利になったなとは思う。
だが「私たち」がネットに求めてきたのは多分「それじゃなかった」はずなのだ。
周りの誰も知らないことの答えをネット上に追い求め、無数の便所の落書きばかりの中からウソをウソと見抜き、名無しが辺境でサラッと公開している唯一無二の「これだ!」という情報を手に入れる。
少なくとも私のニッチな疑問へのヒントを、ネット上に何ら利益を顧みず投下してくれていたのは、いつだってどこかの名も知れぬ「誰か」だった。
そのヒントを元に更なる答えを求める、まさに「ネットサーフィン」していたはずなのだ。
いまやGoogleが検索エンジン一強となっている以上、Googleで見つからないということは、すなわち情報としてネット上に存在しないこととほぼ同義である。
もちろん現状で何ら不満のない人はそのままでいいのだ。だがそれで満足いかない人は何をするか?
例えばtwitterなどのSNS上で個人の書き込みを探すことになるであろうし、同様に特定の掲示板やWebサービス内で検索するかもしれない。
あるいは自分が属するコミュニティで情報を求めるかもしれないし、リアルの友人・知人に聞くかもしれない。
Googleだけで済んでいたものが済まなくなってくる。そう、これじゃ結局「昔」と何ら変わっていないじゃないか。
情報が表から見えなくなってしまったことで、今までそこにあったはずのモノは分散され、結果的に自分とより関係性の近い場所、権威のあるヒトが重要視される。
そんなものはただの既存のアナログなクチコミ文化と大差ない。絵に描いたように同じ情報しか映らないTVと同じだ。
万人に向けた最適解はこれなのだろうか? これが時代の求める新しさなのか? 私がただその波に乗れないだけなのか?
私たちは流浪の民だ。
栄枯盛衰、様々な変化や移ろいを見てきたはずだ。そのたびいくつものサービスを見送り、諦め、いくつもの場所に移り住んできた。
生まれた時からネットが存在する世代では、よりその傾向は顕著だろう。そのことが今や珍しくもないし、むしろスタンダードなのかもしれないが、やはりいつもどこか少し寂しい。
Googleは居場所ではなく、あくまで「玄関」だった。
けれども、「旧い私」は今後のGoogleの脱大衆化を願わずにはいられない。(了)
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季刊 N.E.U.T.R.A.L より