(約7,500文字)
※掲題に対する壮大な皮肉です。ただし筆者は特定の右派・左派的イデオロギーは持っておりません。また明示した任意団体・公的団体を批判する意図はありません。
★前提的な関連記事:
【真理?でも受け入れられにくい?】反出生主義の思想を点検してみようの回
- とある思考実験的な物語
- ひとまずおさらい
- 太郎君の活動限界
- 太郎君の目標設定
- 太郎君が実践すべき場所
- 太郎君が実践すべき方法
- 政治力を行使するためには
- 市民運動
- 政治活動
- 太郎君は政治家になれるのか
- 太郎君は一旦ネットに戻った
- 太郎君はどうすればいいのか
- 太郎君が取り得る方向性
とある思考実験的な物語
ある日、15歳の太郎君はふと気づいた。
「そうだ、みんな死ねばいいんだ!」
なぜなら、みんな死ねば、この世の不幸や苦しみの一切が無くなる。
もちろん戦争もいじめも全て無くなる。ブラック企業も全て無くなる。
そして動物が殺されることもなく、地球環境も汚されることがない。
「そうか、人間が勝手に増えて、生き続けていること自体が悪を生み出しているんだ!」
太郎君はこれを「みんな死ねばいい主義」と名付けた。
そこから5年間、太郎君は自分の正しさを証明するために、
お友達、兄弟、親、先生、偉い学者さん、お坊さん、お金持ちの社長、議員さん、
思いつく限り、ありとあらゆる人、たくさんの人と議論した。
でも誰も太郎君を「論破」できなかった。
と同時に「みんな死ねばいい主義」を好意的に受け入れてくれる人は決して多くなかった。
太郎君は考えた。
「どうしてみんな受け入れてくれないんだろう。」
誰も論破できないってことは、論理的に矛盾が無いってことだ。
つまり「正しい」ってことだ。正しいことは「正義」だ。
それは「この世で唯一無二の最適解で永劫普遍な絶対的真理」ってことだ。
このとき太郎君は、「みんな死ねばいい主義」を受け入れてくれない理由を考えた。
- 実は間違っているから
- 正しいことが真理とは限らないから
- 自分の伝え方が悪いから
- みんなが受け入れにくい事由があるから
- みんなが頭が悪いから
20歳になった太郎君は、ふとtwitterに「みんな死ねばいい主義」についてツイートしてみた。
するとどうだろう。
あっという間にフォロワーは「10万人」を超え、いいねやリツイート通知が鳴りやまなくなった。
さらにネットで良く調べてみると、「みんな死ねばいい主義」と同じようなことが書かれているページをいくつも見つけた。
このとき太郎君は悟った。
ネット上にはこんなにも共感して同意してくれる仲間がいる。
そうか、ネットこそ正しいんだ。
だから、僕が今まで一生懸命接してきた大人たちやリアル社会は、実は不真面目で全部間違ってるんだ。
「リアルの人たちはバカで感情的だからこの真理を認めないし、所詮本能やエゴでしか物事を判断できないんだ!」
「自分たちはこんなにも理性的で論理的で合理的なのに!」
「愚かな大衆め!!!」
こうして太郎君は「みんな死ねばいい主義」でリアルを変えるために戦うことを誓ったのだった。
ひとまずおさらい
さて、いかがだっただろうか?
太郎君は真理である「みんな死ねばいい主義」を大衆が受け入れてくれない理由を
きちんと考えた結果、下記の5つの可能性を考えたようだ。
- 実は間違っているから
- 正しいことが真理とは限らないから
- 自分の伝え方が悪いから
- みんなが受け入れにくい事由があるから
- みんなが頭が悪いから
でもtwitterやネット上の反応を見て、どうやら「5番」が正解という結論を出した。
そうと分かったら事は早い。
どうにかしてリアルの馬鹿な大衆に分からせて、「みんな死ねばいい主義」を実践しなくてはいけない。
だってそうしなければ、どんどん次世代の人間が生まれていって、いつまでも人類が生き続けてしまう。
早く何とかしないと、今まさにそこにある悪や不幸や苦痛が放置・増大されるわけだ。
さて、ネット上でインフルエンサーになった太郎君は、これからどうすればいいだろうか?
太郎君の活動限界
太郎君は現在20歳。心身共に健康かつエネルギッシュに活動できるのは、あと50年~60年くらいといったところだろうか。
それまでの間に出来るだけ早く、しかも一代で成し遂げなければならない。
なぜなら太郎君の主義においては、次世代を「作る」という発想は悪だからだ。
※ただし養子を取るという手段はあるだろう。
(とはいえ、果たして子供を同一思想に確実に教育できるかどうか、
悪の主義(太郎君の考えを受け入れない主義)が蔓延している社会にその子供を放り出す道義的責任、
そして自らの目的を強制的に継がせる正当性、といった問題はある。)
しかし、社会の意識改革を「自ら確認」したい、となればやはり自ら一代で行う必要がある。
太郎君の目標設定
どこを最終的なゴールとするか、結構これは重要なポイントだ。
例えば現在でも、太郎君はネット上の心強い10万人に支持されているわけだ。
徐々にフォロワーを増やしつつも、ネット上でだけ受け入れられればいい、というのであればそのまま何もする必要はない。
※ただしtwitterのアクティブユーザーは減少傾向だというデータがある。
あるいはリアルにおいても小さなコミュニティでよいのなら、そこらの廃村寸前のような地域に同一思想集団で移り住めば、
その中では安らかに暮らすこともできるし、また法律の許す範囲内で、行政権限も好きなように掌握することができるだろう。
上記ならすぐにでも可能なことだ。
だけど太郎君の志は高かった。
リアルの社会や世間に一石を投じて、その自らの主義の正しさを認めさせ、可能なら思想的な過半数を取りたいと思った。
太郎君が実践すべき場所
リアルで大きな変革を成し遂げるには、リアルを主軸で行う方がベターだろう。
それはなぜか?
太郎君は、マイクロインフルエンサー「的」な人々に比べれば、十分正式にインフルエンサーと名乗っていいだろう。
だがその10万人単位以上のフォロワーを持つ誰かが、ネット上の活動だけで、
人類の存在意義を覆すレベルの思想によって社会変革を成し遂げた例はあるだろうか?
※ネット誕生から20年以上、twitter誕生から10年以上。少なくとも長い間そういった思想によるパラダイムシフトは起きていない
しかも太郎君の主義は絶対の真理なのにもかかわらず、なぜかリアルの多くの人々は否定したがり、忌避しがちなものらしい。(太郎君いわく、それは皆が馬鹿だから)
だから太郎君は本や雑誌や新聞、TVやラジオ、デモ活動、
ありとあらゆるリアルにある方法を活用して、思想改革を推し進める必要がある。
太郎君が実践すべき方法
価値観が多様化してきた現在、
そして多様性を認めようとありつつある社会においても、どうやら太郎君の唯一無二の真理である主張は多数派になり切れていない。
それを覆すのには力が必要だ。では変革を成し遂げるほどの力とは何か?
武力?違う。それでは一時的にしろ不幸と苦痛を振り撒く。それは出来ない。
答えをあえて単純化すれば、「権力、財力、政治力」のいずれかだろう。
このうち権力は世襲で受け継がない限り、それのみを手に入れるのは難しい。
また地位・名声・学力などの要因も絡み合っている。
財力もすぐにそれ単体で手に入れるのは難しい。そして運の要素も強い。
であれば選択するべきは、残り1つしかないだろう。
太郎君は、消去法で政治力を高めることにした。
政治力を行使するためには
これは2パターンがある。
一つは市民運動として政治的発言力を強めること。
二つ目はシンプルに政治家になること。
これらを早期に効率的に、大規模にセンセーショナルに行うには、それに長けた左派的な(あるいは宗教的な)テクニックから学ぶものもあるだろう。
ではそのためにはどんな行動があるのか。
次項からは、実際に生命や倫理などの思想に直結しうる大きな問題において、
一定程度の論理的な正しさを持つ団体の活動事例とその結果を見てみよう。
※各数字に関してはここでは概ね主催者発表を採用する
市民運動
以下の項では、近年のニュースを賑わせたこともある市民運動を挙げる。
9条の会
設立2004年。現在までの活動期間15年。
目的:憲法9条の改憲阻止
著名人も多数所属。
現政権をNOとし3000万人署名を企画。少なくとも2018年6月には1350万人を突破したそうだ。
ただし現在、改憲勢力は変わらず多数派与党である。
首都圏反原発連合
設立2011年。
目的:脱原発
定期的に行う集会では多いと数千人クラスが集まる。2013年のある集会では延べ参加8万人以上を記録したそうだ。
ただし現在、原発は廃棄されていない。
SEALDs
設立2015年。
別名:自由と民主主義のための学生緊急行動
目的:政権への抗議
直接所属1000人以上、SNS拡散も駆使。安全保障関連法に反対し、2016年には国会前に3万人以上を集めたそうだ。
ただし、安保関連法案は成立した。
ヘイトスピーチ関連、慰安婦関連
戦後から長く指摘されている問題。その活動には多くの団体が関わり、著名人や政治家も支援。また世界的に問題意識も共有されている。
そしてその主張は倫理的にも論理的にも正しいのにも関わらず、未だヘイトスピーチは横行しており、また慰安婦に対する謝罪と賠償は完結していないとされている。
普天間基地移設問題
沖縄における諸問題の象徴。オール沖縄とする地元民の強固な連携と支援団体の協力。2019年には辺野古移設反対の県民投票が行われた。
そしてその主張は倫理的にも論理的にも正しいのにも関わらず、基地移設の恒久的中止は決定されていない。
政治活動
この項では、強力なバックボーンを持った政治団体を挙げる。
幸福の科学
設立1986年。現在活動30年以上。
会員数は国内1000万人以上とされている。2009年に幸福実現党を設立。
宗教教義とはすなわち真理である。ただしその強固な連携と統一的な思想を持った支持母体をもってしても、いまだ国政への進出を果たせていない。
創価学会
設立1930年。現在活動80年以上。
会員数は国内800万「世帯」とされている。1964年に公明党を設立。
宗教教義とはすなわち真理である。ただしその強固な連携と統一的な思想を持った支持母体をもってしても、いまだ単独与党へはなれていない。
太郎君は政治家になれるのか
お分かりいただけただろうか?
いかに社会や世間全体の既存構造や価値観を変えるのが難しいのか、を。
受け入れられるためには力が必要だ。
しかしその力を行使するために、論理的に正しいとか絶対的真理、という思想や主義をもってしても、大衆を動かすのは大変なのだ。
上記で言えば、公明党ほどの長い歴史と強力かつ多勢の支持母体をもってしても、
優秀な能力をもった政治家であったとしても、現状は国政の10%程度の議席数しか獲得できていない。
そして国会議員が自らの主義と主張を推し進めるためには、連立政権たる与党の中枢に昇り詰めて合意を得る必要があり、さらにそれでも必ず実現できるかどうかは分からない。それは時に総理大臣という立場でも難しい。
上記の誰もが、現状いまそこにある不幸であったりとか苦痛であったりを解決するために活動している。
にもかかわらず、その思いが大多数に支持されるというのはとても難しいことなのだ。
そして運よく大衆に支持されたからといって、自らの理想が全て追求できるとは限らない。
いま現在当たり前にある権利や自由は、そうやって徐々に確立されてきた。
そのプロセスは地道で、とても長い年月のかかることなのだ。
太郎君は一旦ネットに戻った
太郎君は特定団体に所属、あるいは新規設立して社会を動かすのは予想以上に大変だと思った。
そこでふとtwitterのフォロワー数を見た。
「……そうだよ、10万人がここにいるじゃないか!」
10万人で潮流は変えられるか
ちなみにSNSを活用した政治活動として、前述のシールズは当時短期間で軽く数万人以上のフォロワーを獲得した。
だが、その数をもって野党における統一候補を立てたとしても、当選は厳しいと言わざるを得ない。
10万人は決して少ない数字ではない。しかしその10万人でさえ、変える力としてはまだまだ弱いのだ。
例えば衆院選の小選挙区において、最も少ない地域の有権者数で1選挙区20万人くらい。これが東京であれば1選挙区50万人くらいだ。
つまり10万人のフォロワー全員がその選挙区に投票権をもち、そしてその全員が必ず投票(フォロワー投票率100%)してようやく勝負になる。しかしそこで勝って得るものは、1選挙区の1議員という立場に過ぎない。
これが強力な権限とネームバリューを獲得しうる東京都知事ともなれば、当選のためには100万から200万クラスの得票数がほしい。
先の都知事選では小池百合子氏が抜群の知名度、人気、話題性、正当性で300万に近い票を集めた。
ではネット上でその単位の数字に匹敵するレベルのインフルエンサーは誰か?
twitter界隈で言えば、海外にもその名が轟く孫正義氏や渡辺直美氏の200万、だがそれでは今回の小池氏に勝てない。
youtuber出身のHIKAKIN氏でSNSは300万人超、これでようやく勝負になるレベルだ。
これらの人々のいずれかがある日突然「みんな死ねばいい主義」に目覚め、
そしてフォロワー全員がそれを全肯定し、そして全員が東京都の有権者として投票すれば、もしかしたら「みんな死ねばいい主義」の都知事が誕生するかもしれない。
日本国内でさえこれだ。世界全体を変えようとしたら並みのことではない。
世論や社会を動かすというのは、そういった単位の話なのだ。
だがもちろん、太郎君がそれを動かす立場なれるかどうか、それは話が別だ。
※番外的な話
この国では伝統的に、他国(の有力者含む)からの「外圧」的なものに比較的弱い、という国民性がある。端的にそれはライトな流行り廃り分野だけでなく、時には政治的な事柄さえも左右されてきた。
そこで例えば、日本が憧れがちな欧州や米国、もしくは北欧、あるいは東アジア諸国などでまず先に、みんな死ねばいい主義を大衆のメインストリームとして普及させてしまって、その後にいわゆる「出羽守」たちの協力をあおいで逆輸入するといったやり方が効くかもしれない。
ただそれを行うには当然、諸外国の思想を先に変えていく必要がある。
とはいえそれは、それぞれの国の価値観や文化、民族性を理解し、踏まえた上で各母国語を駆使し伝わりやすい表現で大衆の感情にうったえていく必要があるはずで、同時に各国における発言権や影響力を得ていくことも必須で、並の日本人にとってはなかなか難しい対応になる。
さらに別の観点としては、仮にある国がおとなしくみんな死ねばいい主義を採用したとしても、また別の国(の指導者や政権などの権力者)が果たして従順に受け入れるかどうかは未知数だ。
むしろ、皆と口を合わせて思想を受け入れたように見せかけて、実は裏ではそれに従うつもりがない、という事象も十分に考えうるはずで、これは国によってはある意味で「世界の覇者」として他国を出し抜き台頭するチャンスにもなるだろう。
※欧州はまだしも、少なくとも米国や中国、ロシアなどが"みんな"死ねばいい主義を受容する光景を想像するのは容易とは思えない。
もしそんなことになれば、みんな死ねばいい主義が夢見ていた世界とは全く別のモノになってしまうはずだ。
よってその余計な邪魔を防ぐためには、皆=各国が同時多発的にこの思想に目覚めて実行しなければ、みんな死ねばいい主義はスムーズに完成しない。
いずれにしても、巷のファッション流行の隆盛凋落などとはまるで次元が違い、人々の死生観を左右する思想に対して、他国の外圧を利用して変化させる、という手法はなかなか個人や少数団体レベルでは一筋縄でいかなそうだ。
太郎君はどうすればいいのか
ここで、太郎君が考えた「みんな死ねばいい主義」を大衆が受け入れてくれない理由をもう一度振り返ってみよう。
- 実は間違っているから
- 正しいことが真理とは限らないから
- 自分の伝え方が悪いから
- みんなが受け入れにくい事由があるから
- みんなが頭が悪いから
ここで太郎君は5番という答えを出した。だがそれは本当に確かだろうか?
1番や2番は、太郎君の思想・主義において重要な部分なので、そこが原因とは信じたくないであろう。
では3番や4番の可能性はないか?
極端に過激な表現を言っていないだろうか?大衆を馬鹿にする態度を取っていないだろうか?
ホンネとタテマエを分けない言動で共感するのは所詮一部の人であって、多数の合意を得るというのは本来とても気を使う作業なはずだ。
時にそれは自らが嘲笑されても感情的にならない必要もあるし、そしてその理想を多少妥協する必要さえある。
いくら絶対的に正しい真理を持っていたとしても、それが皆に受け入れられて実現できなければ何の意味も持たないのだ。
太郎君が取り得る方向性
太郎君が持つ真理を信じ続ける場合、下記の7点が今後の方向性としてあり得る。
- 次世代以降に託す
- ネット上で満足する
- リアルの小さなコミュニティで満足する
- 主義の表現(目標)をマイルドにする
- 主義の名称を変更する
- 大衆を嘲笑しない
- 大衆を馬鹿扱いしない
1番は、長らく大衆が行ってきた現実的で最も成功可能性の高い方法だが、主義との矛盾性もはらむので扱いが難しいだろう。
2番と3番は既に先述の通りだ。
世間や社会に変化を求めないのなら、太郎君の考え方そのままでいいはずだ。そのためには本当に現代のネットは便利に居場所探しができる。
もしかすると長期的に何らかの活路が見出せるかもしれない。
また地域行政の長を目指すだけで良ければ、村なら数十人、市でも数百人レベルで当選はできるだろう。
4から7番は、同時進行的に行う必要もあるかもしれない。
特に4番と5番。「みんな死ねばいい主義」ははっきり言って過激なのだ。戦略も戦術も間違っている。
ネーミングはもっとキャッチーかつ万人受けするもの、そして本質が見えにくいものに変更するべきだろう。近年で言えば、「パパ活」というワードはある意味で好例である。
矛盾に感じるかもしれないが、本質自体は太郎君が知っていればいいはず。
そして最終目標が「みんな死ねばいい」は受け入れにくいのは当然だ。
いくら真理でも馬鹿正直に言う必要もない。能ある鷹は爪を隠すはずだ。
6番と7番は大衆には感情的になるな、ということだ。そして同時に自分が感情的に責められても冷静に受け止めなければならない。
これは不平等・不公平に感じるかもしれないが、それが多数の支持を得るために無視できない姿勢なのだ。
もちろん心の中で嘲笑したり馬鹿にしたりするのは自由だ。しかしそれを文字に声に、顔に表に出した瞬間に反感を買ってしまう。
何か大きなことを成し遂げようとするときには、時間も、手間も、気遣いも必要だということだ。
ただし、これらを最大限実行しても、太郎君の思想は実現できないことだってある。
受け入れられないものは受け入れられない、という「大衆の論理」だってあるのだ。
「それは思考停止だ!受け入れられないのはエゴだ!」
「これが根本解決で、この世で唯一正しい真理なのに!」
太郎君はいつまでもそう思うだろう。
それについて考える部分は多々あるのは認める。しかし少なくとも大衆は「停止」はしていない。
現にいまこの瞬間にも世間に存在する不幸や苦痛をなくすために、社会というものは常に進み続けているはずなのだ。
(おわり)