よつまお

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介護の問題は「保育園落ちた」問題に通じている。しかしそれでも、給与は"絶対"上がらない。

匿名ブログ記事の日本タヒねから始まって、以前から叫ばれている待機児童問題が一時的に議論が盛り上がってくれているのは良い傾向だとは思うけれど、どうせ皆すぐに飽きるだろうし、結論から言えば利用する側も働く側も共通してすべて「お金」の問題である。

 

例えば私の大好きな神戸屋のハムマヨパンで例えるが、私がハムマヨを欲しがる(需要上昇)→市場にハムマヨが足りない(供給不足)→通常2個入り100円のところ200円でも私は買う(価値の上昇)→ハムマヨが足りない(ry、といった感じでミクロ的にインフレ現象が起きる。

 

保育の問題も真にこれだけ皆が求めていれば、当然に供給する側(保育所)や働く側(保育士)の価値は上がっていって然るべきなはずである。しかし細かい部分を除いてしまうと、結果的には利用する側(家庭)に単に"お金が無い"からいけないのである。

 

保育所が見つからない家庭に毎月100万円くらい現金が降り注げば、むしろうちで月30万くらいのお金叩いてベビーシッターでも雇えばよくね?となり、無問題である。

いやむしろ月に100万円の余裕があれば、夫婦が協力して仕事より家庭内の育児の時間を取る人々もいるだろう。

だがそうはならないのは、その肝心の100万円が無いからである。それゆえ、外に出て仕事せねばならず、保育所を探さなければいけなくなり、日本タヒねに繋がる。

 

前置きが長くなったが、このことは介護士給与にも大きく関連、どころかほぼ同義である。それどころか現状で少子高齢化社会真っ只中のこの日本で、介護の諸問題を解決することの方が先決で、そのことがむしろ保育の諸問題にも終わりをもたらしてくれるかもしれない。

 

私の母は、母の母、つまり私の祖母の介護に軽く20年近くも向き合い、そしてそれを祖母が100歳をゆうに超えるまで続けた達人である。それだけに留まらず、自らの経験を生かし、介護問題に悩む人々が集まる地域会合に積極的に参加し、現状の打破と解決を訴えてきたその道のプロといっても決して過言ではない。

 

その私の母に言わせれば、介護士の給与が上がらないのは、利用する側の「マインド」のせいである。

会合に集まる人は往々にして自らも高齢者である。そしてさらに高齢の親を抱え、そもそも介護をどうしたらいいのか、という端的な悩みから、介護の場、所謂「老人ホームが見つからない」というまるで日本タヒね問題で聞いたことがあるような悩みが続出しているのだ。

 

しかしここで、母は断言する。「探せばある」かつ「お金をかければある」ということだ。私の母はそういった情報を「探す」ためにPCを購入し、難儀しながらも操作を覚えたこともある。

当然であるが、高齢者は決して裕福とは限らない。いやむしろ昨今、老後破産が叫ばれるように、貧困に陥ってしまうケースもあるだろう。

だが、介護の会合に集まってくるということは、それだけ問題解決に対する"意欲"はあるはずである。(当然単なるお茶飲み暇つぶしおしゃべりのためもあるだろうが)

そして母の所感では多くの人は決して、貧困状態ではないそうだ。そんな彼らでさえ「お金をかける」ということに強い抵抗感を持っている。さらにいえば極論「無料」を求めている。

基本的に会合への参加は無料であるが、例えばほんのお茶代の500円でも参加費として取ることにしたら、おそらく彼らは集まらないであろう。

 

なぜ彼らはお金があってもお金を出さないのか。それは高齢者だからである。DNAレベルで仕方のないことである。未来の自分への恐れからくる貯蓄マインドが絶対に抜けることはないのだ。さらにいえば、介護が必要なのはむしろ自らの親などであって、"自分"のことではない。ゆえに厳密にはサービスを直接受ける本人ではないのだ。余計に当事者意識として投資を行おう、というマインドにはなりにくい。

 

利用する側がお金を出したがらないのである。ハムマヨパン(介護サービス)を200円では買わないというのである。100円で販売しているのが信じられないくらいあんなに美味しいのに、だ。それではハムマヨ製造業者(介護事業所)はハムマヨが足りなくても値段を上げられないし、ハムマヨの価値(介護士給与)も上がるはずがないのである。

介護士も前述の保育士も、給与が低くても、どんなにきつくても、熱意をもって従事している人を私は知っている。しかし、多くの人が抱く仕事へのやりがいとは、やはり給与が伴ってこそなはずである。

 

そこで本来は、活躍するのが政府である。民衆がお金を使わないのなら、国がお金を使って経済を回さなければ止まってしまう。しかしその政府を形作る政治家を主に当選させている高齢者たちは、前述の通り無料を求めるほどのケチなのである。

高齢者が求めているのは、未来の子供たちや震災被災地にお金を使うことではないし、育児や保育所不足で悩む世代にお金を使うことではないし、介護サービスを直接受ける自らの親にお金を使って欲しいわけでもなく、"私"(高齢者本人)にお金を注いで欲しいのである。

だから政府の所謂"ムダ遣い"も"バラ撒き"も決して許してくれない。そんなことしようとする政治家は当選できない。そりゃ介護報酬も下がるわけである。(これには批判も多いが、事業所に内部留保を出させるための策という意見もある)

 

おそらくこのマインドもパラダイムも、少子高齢化あるいはデフレによる不景気が完全に食い止ってくれない限り、変わらない。世代間闘争をする元気もなく、この日本では強き高齢者が変わらずマジョリティであり続けるだろう。しばらくは覆しようもないのだ。私たち弱者は、その間、日々をただ生きるだけで精一杯である。まだ見ぬ未来は果たして輝いているのだろうか。

保育園落ちた、日本タヒね。なんて言うまでもなく、もうすでにこの国はタヒんでいるのかもしれない。。ちゃんちゃん。

 

おしまい。