よつまお

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かけがえなき友はこの腕に宿る

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Self Review

 

ネット文芸コンペテーマ。文体はエッセイに。

かなり自由度が高いコンペであり、しかし、それはそれで難しいと感じたもの。

 

自由とは言ってもテーマは決まっているわけで、それが私に合う合わないはその時次第である。

今回の場合、いわゆる酸っぱい葡萄的に感じている題材で、執筆時はなかなか今まで味わうことの出来ない感情を抱いた。

 

最終的には以前、私が書いたものを大幅リライトするような形で、結びまで至った状態である。

改めて、私自身の考え方はあまり変わっていないと気づく作品だ。

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かけがえなき友はこの腕に宿る

 

「かけがえのないもの」とは。友であろうか、恋人であろうか。仕事であろうか、または地位や名誉、お金であろうか。

 

私にとってそれらは、あれば尚良いものであって、決してかけがえがないとは言えない。

私は常に物事を優先順位で考える。

 

それはつまり〝私が私として考える〟ということが第一前提としてあるのだ。

そのために絶対不可欠なもの――それは「記憶」である。「思い出」などというチープな言い方とは一線を画する。

 

いま現在の私を形作ってきているものは、間違いなく、今までの私が生きた中で培ってきた記憶によるところが大きい。

 

些細な習慣から性格、価値観に至るまで、あらゆるものが記憶に基づいているのだ。

例えばここで私が突然に記憶喪失になったとしよう。全てを無くし、そして新たな私として生きていかなければならなくなったとき。

 

それは真に私と言えるのだろうか。

 

いや、それは〝この私〟ではない。むしろ新しい私がその時生まれたに過ぎないのだ。

何に共感を覚え、何を拒絶するのか。何が悲しく、何が喜びなのか。それらは所謂この私だからこその感情である。

 

とはいえもちろん、私の人生を彩ってくれた友情や恋愛、仕事やプラベートが無価値かと言われれば、そうではない。

それらも私の中に確かに刻み込まれているし、それがあるからこそ記憶がかけがえのないものだと言い切ることが出来る。

 

いま私が一番恐れることは、この頭の中に記録されている情報達を失ってしまうことだ。

情報の喪失の究極の形が、命の終焉、すなわち死だとすれば、それは生命体として何ら仕方のないことである。

 

しかし前述のように、私がこの私を失ったとしたら。もしも明日の朝起きた時に、新しい私となっていたら。

 

これを考えるだけで、眠りというものに恐怖さえ覚える。私は忘れるのが怖い。何かを無くすのが怖い。願わくは自らの手で、自分に関係するあらゆる得失を決めたいのだ。

 

そう、私はそう考えてしまうほどに、とことん臆病なのだろう。

 この頭に詰まっているものを無くさないためにはどうしたら良いのか……

 

ここで、神様は私に武器をくれた。

 

 その武器とは「これ」である。

 

いま私が目の前で記述し、そして誰かが目にしたりもするであろう〝文章〟だ。

この私をここに記すことで、それは私の存在証明となり、もし仮にこの私がいなくなっても、ここには確かにこの私が生き続ける。

 

……そこで私はふと気づく。

 

私にとって最もかけがえのないものとは、記憶ではなく――この文字であり、言葉であり、文章なのではないだろうか。

 

私はこの見つけ掛けた〝盟友〟を失わないために、今日も大切に、大切に書き続ける。