四方山話シリーズ。
年末の恒例行事、ダウンタウンの笑ってはいけないシリーズ。
まー最近は豪華ゲストとか芸人たちがわんさか出てくるようになってから、個人的にはちょっと引きぎみに見てるわけだけども。
面白さってよりはなんというか単なる風物詩として見てるに近い感覚。
っていうか初期の頃の罰ゲーム制の温泉宿とか、むしろ廃旅館とかが至高だったよなーなんて思ったり。
さてさて、本題。
黒人や障碍者をネタにするとなぜいかんのか?
2017年はビバリーヒルズコップ(エディマーフィ―)風の黒人、そして2018年は乙武さん本人の熱望というエクスキューズ付きでスターウォーズのR2-D2。
ああいったネタをなぜネタとして受け止められない人がいるんだろうかねぇ。。
映画エンドアのワーウィック・デイヴィス氏とか見てこないで育ってきちゃったような、純粋培養の夢見る少女ちゃん系?
例えば逆に、海外の映画やTVの世界では、いわゆるステレオタイプな日本人(アジア人)の風貌を持った人物が登場したりすることもしばしばある。
黒髪のピッチリ七三分け、度のきつい眼鏡をかけて、歯は出っ歯、つんつるてんなスーツを着て、首からはカメラをぶら下げて、お辞儀ばっかりしている男性。みたいな。
あれを見て差別だー!馬鹿にされている!とか不快に思う人っているん?
あ、いやぁいるのか、きっとw でも所詮創作物の中の世界。そんなマジになっちゃってどうするの?って思うけどねぇ。
たぶんリアルで差別意識が払しょくされないのは、面白おかしくまだ創作の中で取り上げる輩がいるからだ!みたいな因果崩壊の発想なんだろうけど、そんなに両者を混同するアホっているんかいね?
あー、いややっぱいるよね、そういう人w
うーん、というかね。そもそも極論として、ああいったネタを見て不快だ!とか面白い!とか思う人が半々くらい、どっちもいてくれるからこそ自然だと思ってるんだよね。
これがむしろ全員が全員、統一された意識で差別だ!とか思ってたら気持ち悪くない?
結局ネタにされる、そしてそれが両者の立場で議論されることが健全なのであって、それをなんでもかんでも不謹慎だって言って封じ込めちゃうことって、すごく気持ち悪いわけよ。
たぶんネタとされなくなったら本当の終わり
例えばハゲとかデブとか、わりと笑いのネタとして定着しているものもあるけど、あれってきっと不摂生以外の要因でなってしまった人、それに心底悩んでいる人にとっては、その単語を耳にするだけで非常に不快なものだと思うわけよ。
でもむしろデブとかハゲなんて日常茶飯事でどこかで耳に、目にする単語だよね?
あれを黒人とか障害者とかが差別されている!と同じようなテンションで、真剣に差別だー!って発言してくれる人っているんかね?
いやぁ、いないよね。もしいたとしたら、多分渡辺直美さんも斎藤司さんも、今の芸能内の地位に食い込めなかった可能性すらありえる。
なんかね、こういうところにすごいダブルスタンダードな感じを覚えるわけよ。
むしろハゲ&デブで悩み、馬鹿にされる人口の方が、全地球上においてめちゃくちゃ多いはずなのにさ。
結局のところ、笑えるからこそ、ネタとして市民権が得られているからこそ、そういった類の人たちの一部が救われるって側面は否定できないと思うんだよねぇ。
例えば先述のエンドアを見て、小人症の人々が差別されている!とか馬鹿にされている!って思う人がいるんかな?まぁ一部にはいるんだろうけどさw
てかむしろああいった俳優さんの活躍を見て、どれだけ小人症の人々が勇気づけられたり、救われたのかってことよ。
それを全て不謹慎で封じ込めてしまうと、きっといつか完全なるタブーとなって、最終的には人々の無関心を招く。
それが一番不幸なもんよ。無関心ってことは、活躍の場が与えられないわけ、頑張っても報われないわけ。面白さも分からないから、ネタとして笑えないわけ、成立しないわけよ。
そうなるとせっかく救われるはずだった一部の人さえ救われなくなる。
マジで不幸。っていうか被差別の100人全員を救おうって理想は理解するけど、たぶん無理。残念だけど。人が人である以上は無理。
だったらむしろ100人のうち5人でも10人でも報われる社会を目指すべきなんじゃないの?って。まずはそっからのスタートでしょ。