某電通様による過労死問題が話題になっているね。そしてこの話題のニュースサイトやtwitterなどのSNS上では様々な意見が飛び交っているんだけれど、結構よく目にするのは所謂残業時間自慢大会。
これは今般の問題が、残業月105時間、というわりとキリが良い数字かつ皆にとってキーポイントとなるボーダー数字だからより一層なんだと思う。
この残業自慢について、今回少し考えてみたい。
なぜ残業時間を語るのか
まぁそのほとんどは自己顕示欲の一種というか、むしろ私だって俺だってこれだけ苦労してるんだぜ、そんなの楽勝の残業時間だろ、的な虚栄心が主なものなんだろうね。
とはいえ、はいはいウザうウザい自慢乙、だけで済ましても別に構わないように思うんだけれども、これだけ社会問題として表面化してくると、それらの残業自慢を一概に無視できない理由ってのがあるんだよね。
彼らは生存者である
少なくとも残業自慢をする彼らは、当該の過労死問題の残業時間とほぼ同程度か、あるいはそれを遥かに超える時間仕事をこなしながらも、タヒぬことなく今なお生きている者たち、つまりまぎれもなくサバイバーってこと。
まぁ非常に残念な人間会社環境かつ非効率的な仕事なんだろうなぁ、と悲観せずにはいられないけれども、どのようにそれに対処し、そしてどう今なお生きているのか、というのは決して参考にならないわけではないよね。
サバイバーの種類
大抵のサバイバーは2通りだ。
強靭な精神力または絶対的な体力、あるいはその両方をもってして耐え抜き今も従事しているタイプ。
一方で残業という敵にギリギリまで戦いを挑んだ結果、最前線を今なお離脱せざるをえない後遺症抱えたタイプ。
少なくとも前者のサバイバル術を聞いておくことに損は無いだろうし、また後者のやり方は反面教師としなければならないってこと。
耐える、は間違いだけど
自らの心身に異常をきたすレベルを明確に把握する必要があるのは勿論としても、誤解を怖れず敢えて言えば、残業に打ち勝つのも負けるのも、気持ちの問題。
ここで気持ち、と言及しているのは、これは根性論や精神論を意味しているのではなくて、どこまでのことを自らが耐えるという選択肢を取るかということ。
俗にいう堪え性が全くないのでは、仕事を成功させるのは難しいだろうし、逆にあまりにも我慢強いとそれはサバイバーになるどころかタヒんでしまいかねないよね。
要は逃げ足をいつどこで生かすか、ということとほぼ同義と言えるかな。
私もサバイバー
私も流れに乗って残業自慢をすれば、はっきり言って月105時間程度の残業は屁でもない。しかしそれは当然、私が当時行っていた業務上で、私にとって、という但し書きが必ず付くわけ。
千差万別な生き方があるわけで、万人に適用できる話であるはずがないんだよ。
というかそもそも残業なんてぶっちゃけしたくなんかないし、いつまでたっても大嫌いだね。例え給与が倍になったとしても、だが断る。もし10倍とかだったら(ry
いつやるか、今なのか
しかし自らがやりたいこと、やり遂げたいことのために、効率性を考慮しつつも、どうしてもしなければならないときがある。
価値判断としては、たったそれだけなんだけどねぇ。実に簡単な理屈。
しかしそれは決して、命や心との天秤ではないということ。逃げ足は誰よりも早く。それだけを心掛ける。ある意味で、ずる賢くなければサバイバーにはなれない、絶対ね。
犠牲を出さないために
貴方がサバイバーにしろ、そうでないにしろ、痛ましい事件を少しでも減らすために最も重要なことの一つは、
残業をしたがる人、残業が好きな人と組まない、ということ。だけど、優しく素直な人ほど彼らのために自らを犠牲にしてしまうんだよ。
誰もが仕事は辛くて、大嫌いなもの、残業なんて以ての外。このくらいの価値観で丁度いい。
もっとはっきり言えば、多くの人の能力なんぞたかが知れているわけで、凡庸な人材が残業したところで、何の足しにもならないね。むしろマイナス。無駄の極致。
なんだかんだ言っても…
なんとなく今回、残業自慢ってものを肯定的に見てきたけども、それって逆説的に残業という存在自体を好意的に解釈することになりかねないので、あんま歓迎すべきことでもないのかもねぇ。
なんとなく私なんかも意図せずサバイバーの老婆心としてやってしまいがちだから自省すべきなんだが、、
まぁ唯一確かに言えることは、生きろ!!ってことよね。