私の中でお気に入りの一つの作品。
ようやく少しは原稿用紙を上手く使うことが出来るようになったかな?という時期のもの。
セルフレビュー
内容に書かれた私の性格も生き方も考え方も、今と全く変わっていない。
鮮度が落ちていないのだ。
後で振り返ると、なんだこの駄作は!と思うものが常なのに。
もし今後、私がこの作品に違和感を覚えるとしたらそれは、私が真の大人に成長した時だろう。
現実逃避行
現実とは常に理不尽なものだ。ここ数年、これほどまでに人の無力さを痛感したことは、未だかつて無いと言ってもいい。
各々の出来事は、あまりにも些細で月並みで、他人にとっては何の関心も生まないし、面白くもないので、ここでは言及を避ける。
そんな幾多の理不尽に負けないのが、人の強さなのだろう。
私は元来それほどポジティブな性格ではなく、大体いつも最悪の場合を想定して物事を進める。それは悪い出来事がおきた時に、自分のショックを少しでも減らすためだ。
ただ、それでも緩衝しきれないほどの波に押しつぶされそうなときが、たまにやってくることがある。
ストレス耐性というものを数値で測れるとしたら、自慢じゃないが、私は赤子並みに低い方だと思う。そんなとき、自分の味方になってくれるのはいつも娯楽だ。
映画でも音楽でも本でも、インターネットでもゲームでも、酒でもタバコでも何でもいい。とにかくそういったものが、何とか自分を保つことを教えてくれる。
ちなみに私が娯楽に興じる時は主に一人である。幼い頃から年の離れた兄弟しかいなかったせいか、一人遊びが当たり前だった。
寂しい性格だと思われそうだが、例えば誰かに悩み相談をすることがあっても、大抵その時は既に自分の腹の中は決まっているし、人と悩みを共有したところで、問題の根本解決には至らない無駄な事と思っている。
だから私は一人でストレス解消に走る。
今回はもうダメだ、いっそのこと死んだろか! と思うときでも、映画を見て涙を流し、音楽を聴いて心が躍り、本を読んで空想に浸ることで、よし、明日だけはこの現実を頑張ろうと思えてくる。
私にとって、現実は夢も希望も無く、本来何の楽しみも興味も無いものなのだ。
きっともっと楽観的に生きた方が世の中は上手く渡れるのだろう。だが、二十代半ばまでずっと培ってきた価値観を、今更変えるというのは途方も無く難しい。
一人娯楽を楽しむということは、もはや私にとって切っても切れない関係なのだ。
そんな私が常に思っていることは、いつかは人の創った娯楽を楽しむのでは無く、自ら娯楽を発信できるようになりたいということ。
それは自分を救ってくれた物への恩返しであり、私と同じように一人で悩んでいる人へ少しでも何らかの助けになるのであれば、どんなに有意義だろうか。
私が発信できる物はなんだろう。残念ながら声も顔も役者向きではないから、俳優・声優は却下。マンガを書いたり、バンド活動をしていたこともあるので、人よりその辺りのセンスはあると思うが、どうも垢抜けない。そこでたどり着いたのが、昔から読み親しんでいた文章の世界である。
娯楽の世界に関われるのであれば、それはどんなジャンルであれ幸せなことだ。
一昔前だと私のような素人が発表する場はなかなか無かったものだが、現代であればインターネットを駆使して、比較的簡単に世に出すことが出来る。もちろん食い扶持という見返りを求めなければの話だが。
現在、私の頭の中には構想十年とも言うべき大長編物語が眠っている。それは私にとって理想の世界を実現する御伽噺である。
稚拙な想像力であれこれ設定を練り直し、いつしか随分と歳月が流れてしまった。
これが陽の目を見る時は来るだろうか。もしかしたらこのままずっと構成を悩み続けるのかもしれない。
だがここで中途半端に妥協して創作してしまったら、誰かを元気づけ、夢を与える物語にならない気がするのだ。
……と、いつものように自分だけの物語を思い描いていると、あっという間に日は昇り、私は眠い目をこすりつつ満員電車に乗る。
これだけ私がちっとも面白くない世界に不満を抱えているのに、周りは一様に普段通りの生活をしているように見えてしまう。
マスコミがなんだかんだ煽っても、結局社会は上手く回っているということか。
少なくとも私が描く物語の中の世界だとしたら、こんな世間の状態に対して、世の中を変えたいと願うヒーローが現れ、とっくに革命が起きていることだろう。
多くの人が平然と他人と社会とを批判しながらも、当たり障り無く日常を過ごしていく様は、空想の世界で生きてきた私にとって実に不思議だ。
常識を覆すような突拍子もなく面白い出来事は、現実では今日も起きなかった。
これが世に言う、「すみなすものは心なりけり」、というものなのか。