よつまお

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国語のゆくえ

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Self Review

 

所属団体7月自由文。

国語というものについて、幼い頃から抱いていた感情を吐露したもの。

 

一貫して変わらない主張を表現することが出来た。

 

とはいえ同時に、書いている最中は国語への同情心にも似た理解も芽生えてしまったため、より一層の辛辣な文章にすることも出来たなという心残りもある。

 

文章スタンスをズレさせないというのは、今後としての課題である。

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   国語のゆくえ

 

 学校教育では様々な教科を扱う。

 

 曲がりなりにも文章を書いている身であまり言うべきではないかもしれないが、私は国語が「大嫌い」だ。

 

 その中でも特に、ある種のパターン化された国語の課題にいったい何の意味があるのか、以前からとても疑問だった。

 

 例えば次のようなものである。

 

「この文章を読んで感想文を書け」

 

 ……なぜ「課題用の文章」を読んで、「感想」を書かなければならないのか?

 

 それこそ小学生の頃から、私にとって読む文章や書くテーマとは、それぞれ自分自身で決めるものだと思っていた。

 

 言われるがままの文章など書いて国語の成績が上がっても、決して読解力や文章力は向上しないと思うのだ。

 

 さらに次のような設問がよくある。

 

「この時の作者の心情を書け」

 

 ……ある文章を読んで生じる感情は人それぞれなはずで、作者の真意は絶対に作者にしか分からない。文章とはそういうものではないのだろうか?

 

 そんなニュアンスレベルで解答されたものを、肝心の模範解答と照らし合わせて採点するのは、作者とは無関係の教師である。

 

 この構造で果たして何の技術が向上するというのか。

 

 学生時代のある日の国語の授業にて、淡い恋愛を題材にした文章を扱ったことがある。

 

 その関連で「どんな異性あるいは同性が魅力があるといえるのか」という議論になった。

 

 ここで教師は私を指名。これに対して私は「教養がある人」が魅力的であると答えた。

 

 しかし、瞬刻の後に一蹴。

 

「それは回答になっていない」

 

 ――そもそも教養を認識するのは難しく、表にも見えず〝数値化〟もできないため、答えとして曖昧――だそうだ。

 

 私はこれを聞いて驚愕した。

 

 教養の有無の判断は決して難しくなどない。自身が身につけているものに応じて、他人が持ち合わせているレベルも自然と判別できるものである。所謂「類は友を呼ぶ」だ。

 

 そして教養は断じて抽象的ではない。網羅的なだけである。むしろそういった数字で表れないものを学習し、体得していくのが国語ではないのか。

 

 くすぶっていた国語への不満は爆発し、このときから国語が心底嫌いになった。

 

 昨今、そんな私を反骨的に刺激してくれるフレーズを度々目にすることがある。

 

「若者の国語力が下がっている」

 

 ……果たして何を以て国語力と言っているのだろうか?

 

 私はインターネット上で様々な文章に出会う。ホームページやブログ、一時の感情を吐露する電子掲示板などの雑多なものまで。

 

 そこでは日々電子の荒波に晒されながら、数多の独り言や論議が交わされる。

 

 ハッキリ言ってしまえば、世間でプロと名乗っている文筆家よりも遙かに鋭敏で、上質な文章を紡ぎ出す若者がそこには数え切れないほど存在する。

 

 少なくとも、国語力が云々~と誤判断している大人達では、逆立ちしてもそれらのレベルには未来永劫到達出来ないだろう。

 

 国語は常に変化する。だからこそ国語という教科は、時代に合った正当な評価を与えるようになる必要があると思うのだ。

 

 せっかくあらゆる勉学に通じる科目なのだから、私のような劣等生を生み出さないためにも、中途半端なものであってほしくない。

 

 国語に限らず「子供の学力低下」などという報道がなされるたびに、識者の着眼点がややズレているのではないかと思ってしまう。

 

 世代間の見解の相違が、いつの日か解消される時は来るのだろうか。

 

 いや、おそらくこれからもずっと来ないのであろう。世間が追いつく頃には、新世代はもっと進化、あるいは退化している。

 

 若者は皮肉たっぷりに「これだから大人は~」と常々思っている。一方の大人は「まったく最近の若者は~」と必ず言うだろう。

 

 これらは、遙か昔の平安時代から使い古されてきているセリフ達である。歴史はいつも繰り返しているのだ。

 

 いまこの瞬間も、学生達が様々な要因から国語を嫌いになっていく。

 

 しかし、運がよければ誰かの輝かしい作品に出会い、私のように国語嫌いでありながら、文芸という道に足を踏み入れて行く者もいるだろう。

 

 少なくとも文章という世界において私は、その誰かに救われた一人である。

 

 だからこそ私もその恩返しとして、旧い時代と新しい時代を繋ぐ、そんな表現者の一人であり続けたいと、強く強く願っている。