四方山話シリーズ。
「例え」というのはすごく便利な表現技法だ。
人間にとって、何かと寸分違わぬ同じ状況を作り再現して説明したり、あるいは他人の脳内に自分の考えを直接投影できたら、きっとこの世の中に比喩という手法は必要なくなるだろう。
しかし少なくとも現状、そんな技術はまだない。
そこで人に何かを説明する際は、比喩を活用することがしばしばあるわけだが、どうもそういった「例えば」の話を素直に飲み込めない人たちが存在するようだ。
「例えば」こんな話がある
ある命題に対しAまたはBという選択肢があるとき、普通は回答としてあり得るのは「A」または「B」もしくは「その両方」あるいは「分からない」の4択であろう。
ところが、まれに「C」と答える人がいる。
いや、百歩譲ってここまでならまだわかる。
私が問題視しているのは、むしろ突如として「100」とか「オムライス」とか言う人がいるのだ。
(この例において「アルファベット」か「数字」か「日本語」か、は問題ではなく、
何を言いたいかというと「命題に対する回答を無視し、全く別ジャンルの話題に転換する人のこと」を指している。意識的か無意識的かは別として)
これを身近な例に置き換えてみよう。
「何飲む?」という問いにおいて、「ジュースとお茶ならあるけどどっち?」という選択肢が与えられている。
この時、回答としては「ジュース」または「お茶」もしくは「両方」あるいは「分からない(別の物がいい、どちらでもない)」なはずだ。
ここで何の前置きも無く「コーヒー」という人がいるわけだ。これは前述の「C」と答えるタイプの人。
(そもそも前提として、ジュースとお茶しかない。アスペか?と疑いたくなるが、まだ理解できんことも無い。)
ここまでは分かるだろうか?では続ける。
ある日、
「このジュースorお茶問題があったとして、アナタってそんなとき「コーヒー」って答える人よね?」と誰かに問いかけたとする。
ここでその「誰か」が前述の「100」または「オムライス」と答える人だった場合にあり得るセリフは【でも私コーヒーなんて好きじゃないし】だ。
言ってる意味が分かるだろうか?
命題は「アナタはコーヒーが好きかどうか?」ではない。
あくまでも【「ジュースorお茶問題」があったとして、その回答としてアナタは選択肢にない「コーヒー」と答えるタイプであろう?】という問いである。
より簡単に言えば「与えられた選択肢を素直に回答しないタイプだろ?」と言われているわけだ。
この「素直に回答しないタイプだ」ということを例として説明するために、出題者は「ジュースorお茶問題」を挙げているわけだが、なぜか特定の人たちにはそれが伝わらないということが発生する。
「例」を「例」として捉えられない人がいる
前述のような人にとって、「例」は「例」として機能しない。
つまりその人にとって「ジュースorお茶問題」とはリアルな例えにはなり得ず、「素直に回答しないタイプだ」を表現するには不十分ということだ。
では「例」自体を変えればいいのではないか?と思うかもしれないが、むしろ「例」を変えた程度で伝わるのなら苦労はしない。
前述のような人にとっては、
「今まで自分が経験のあること(ただし当人が覚えている範囲)」
あるいは「今後経験しそうなこと(ただしそれは当人の主観判断)」
の範疇に収まるもののみが「例え話」として機能するのであって、そこから少しでも外れたことを「例題」として出題されても脳内で考えることを拒絶する。
つまりより端的に一言で言えば「想像力が著しく欠如」しているというより他ない。
果たしてこういったタイプに対処する術はあるだろうか?
少なくとも私が考えうる限り、精神力を必要以上に疲弊させる以外に道は無いと思うので、「真剣に説明しよう」と思わないことがベターだ。
おそらくアナタが真剣に悩むほど、当人の「理解力は無い」ので、考えるだけ無駄というやつであろう。