四方山話シリーズ。
誰かが大喜利的に面白いこと言ってみたり、時には特定クラスタに対して耳障りのいい言論で共感を得たり、はたまたそういったものを通して自分自身が社会から承認されているのだ、という感覚を覚えたり。
しかし昔のツイッターは良かったのに、最近の若者はうんたらかんたら、、とかいうジジババ臭いことを言いたいわけじゃない。
結局ツイッターって昔からそういう場だったよね、っていうか人間社会ってそんなもんだよね、って話。
サラリーマンが毎晩大衆居酒屋でやってることの延長
いにしえの昔から、人間なんてそんなもん。
誰が一番面白いか、誰か一番強いか、誰が一番有名か、誰が一番支持を集めているか、誰が一番偉いか、、
そしてそれらに絶対的価値は往々にしてなくて、時には狭い範囲内で「相互に」キミ最高だね!という評価を与え合っている。
A「部長ってさー、最近超うざくねー?」
一同「だよねー!!」ワイワイガヤガヤ
B「この前、経理課のCちゃんとデートしたんよー」
一同「すげー!!」ワイワイガヤガヤ
ということと同じレベルの話をtwitterっていう場を借りて、世界中の人々が常にやりあってるわけよ。
上記の例における、「だよねー」とか「すげー」っていうのは、あくまでも「特定の集団」においてだけ成立する話。
ほとんどの場合、自分にとって価値のあることでも、他者にとっては既に当たり前だったり、または価値の無かったものだったりすることもしばしば。
世界が広がったように見えてその実、ツールが違うだけで中身は「自己によって心地よいクラスタ」で過ごす、という結局リアルと大差ないことをやっている。
なんかさぁ思うわけよ、twitterってやっぱそういう使い方にしかならないのかな、って。
それは必要なことだけど、もっと別のモノ見たくね?って話
別にtwitterを批判したいわけでもなく、twitterを好んで使う層を批判したいわけでもない。
当然悪いことだとも思わない。そういった「使われ方」というものがいわば「無意識的な多数決」によって自然と決定されて根付いたものだと思うから。
ただ単純に思うのは、前述のサラリーマンの例における「居酒屋」で「口頭」によるコミュニケーション内でやっていたことが、「twitter」で「文字」に置き換わっただけだよね、ってこと。
おそらく本当の黎明期にツイッターに乗り込んでいった人たちって、最初は訳も分からずこの「つぶやき」って行為の何が面白いん?ってことを少しは感じたと思うわけよ。
でもその後に、徐々に人が集まり、そこに言論ができ、そして共感を得られるようになった。だからみな発信し続ける。
だけどさ、それって既存のリアルのコミュニケーションにどこか飽き飽きしていたり、嫌な思いを抱いていた人たちにとって、本当に「真に」「新しい何か」だったのかな?って時々思うわけよ。
ほんと本質としては何もリアルと変わってない。そこが不満だし、残念でもあるわけ。
きっとそのうちまた誰かが「真に新しい何か」を求め出して、そして世界の別のまた誰かがそれを作るんだと思う。
私はそういう「次」を早く見てみたいんだよね。