巷に一定数存在する「ワガママな人」(ワガママに見える人)をテーマに考えてみる。
口頭による会話、あるいは対話は、人のコミュニケーションにおいて非常に重要な役割を持つことと同時に、大きな割合を占めている。
そういった一方で、自身が都合が悪い状況に陥ったり、即答に困るような命題があったり、あるいは単に不機嫌であったりすると、一貫して「無言」に徹するタイプの人がいる。
つまりそれはコミュニケーションの放棄であり、他者にとってみれば単なる「無視」であり、時に「反抗」ですらある。
今回はそういった人々を紐解いてみる。
多くの場合は単なる「ワガママ」な人
一部の人々(後述)を除いて、端的にあえて厳しく言ってしまえばそういった人の大多数は、
コミュニケーション手法の多くが「甘え」であり「他者依存」であり「受け身」であり、同時に「他者に対する配慮や気遣い」が足りず、かつ「思考の言語化」が下手で、「試行錯誤や創意工夫」を拒絶し、客観的には「ワガママ」な人だ。
つまり、当人にとって機嫌が良い時を察して、興味のある話題、言語化しやすい話題を提供しろ、
というわけだ。ただしそれは当然、原理的に当人しか知り得ない。
加えてさらに悪いことに、当人に都合の良いお膳立てがなされても、それに応じて答えるかどうかは完全に当人の自由である、という考えすら根底に持っている。
「無言」というコミュニケーションを拒否した態度を貫くことが、他者の心情的に一体どれほどの影響を与えるか、を一切考慮しない。というより考慮しようという発想すらない。
答えられないのだから、あるいは答えたくないのだから、「無言」でよい、いやむしろそれが自然である、という考えなわけだ。
残念だがこういった人は、他者が自身に歩み寄ってくれているからこそ、今までコミュニケーションが幸運にも成立していた、ということに全く気づいていない。
例えば「ちょっと待ってね」「後でね」「いま考えてる」という言葉、あるいは単に「相槌」を口に出すだけでも、どれだけ円滑な会話で良好な関係性が望めるかが全く分かっていない。
そんな人に相対したアナタが取れる対処法は、大きな心で受け入れるか、妥協して諦めるか、はたまた距離を取るか、だ。
決して真剣になって改善させようとしてはならない。それはアナタ自身が無駄に疲弊するだけだ。
一方で見過ごせないのは「場面緘黙症」
他方で、医学的にみていわゆる精神的な領域における「障害」と認知されているケースもある。
それは世間的にはまだ馴染みが薄いが、「場面緘黙(かんもく)症」と呼ばれるものだ。
「当人にとって」通常の口頭のコミュニケーションには何ら問題がないにもかからわず(ということは少なくとも身体的な障害はない)、「ある特定の場面や状況におかれたときに」途端にしゃべることが出来なくなるという症状だ。
これは、その人が持つ個性や性格との線引きが非常に難しいのは言うまでもない。
例えば誰でも大きな緊張感を抱く場面に突然放り出されたら、上手く口が回らなくなるし、言葉に詰まるし、無言になってしまうのは想像に難くない。
しかし「場面緘黙症」の場合は、少なくとも「通常の人々」にとっては何ら障壁があるように思えない場面ですら、努力してもしゃべることが出来ず黙ってしまうわけだ。
この原因については未だに有力な定説はないものの、
例えば過去にある特定の心理的ストレスがかかる状況において、不安に起因してたまたま「黙る・無言」になることによって、当人が「脅威を回避した(簡単に言えば成功体験)」ことに由来している面、も否定はできないだろう。
つまり極端な例を挙げれば、「親に怒られる(強いストレス・恐怖)」という場面において、たまたま「黙り続けたことよって」、親が怒ることを止めてどっかに行ってくれた(脅威の回避=成功)、という経験から、
以降は一見打開困難な状況においては、自らの危機回避のために無意識的に無言を選択してしまう、というケースがありえる。
一言で言えば「嵐はいつか過ぎ去ってくれるはずだ」という考えを持ってしまうわけだ。
こう言った場合には対処するためには、
当人が「無言で耐えて過ぎ去るのを待つ」よりも「喋ってみた方が実は解決が早い、いやむしろ嫌な思いをしなくて済んだ」=「会話って大切だ、楽しいものだ」
という経験を徐々に積んでいくことによって、改善が見こまれる可能性がある。
少なくともこういった「場面緘黙」の場合は、当人自身が一番困っているのだ。
例えば誰でも、嫌なことに対し思わず目をつぶるのは、決してわざと行っているわけではないはずだ。
そのため対応には、少なからず周囲の理解やサポートも必要になってくる。
他者の無言に悩むアナタが身近に接するその人が、果たして「本当にワガママ」なだけなのか、その判断には冷静かつ一定の注意をしてみたほうがいいかもしれない。