自身の感情の整理として、ここに記す。
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この数年間は、動物に常に愛情を持って接することや、そつなく世話をすることの難しさを改めて痛感したものだ。
過ごした時間は大して多くなかったのに、直接的に面倒を見ていたわけではなかったのに。
ヒトでいう老齢に差し掛かり、時には手間がかかってうとましいとさえ思ったこともあったのに。
なぜ、こんなにも悲しいのだろうか。
ひとしきり泣いたのち、果たして私が抱くこれは、悲しさ、あるいは哀しさと表現できる感情なのだろうか?とふと考える。
決して家族とは言えない関係性ではあったものの、闘病中はやつれて苦しんでいる姿を見て、単にかわいそうだとは思ったし、
それでも懸命に看病している飼い主の心情を察して思わず涙が溢れたりもしたが、
しかしそのときまでは、あの子自身の運命の灯に直接向けた悲しさとは少し違い、種類も若干異なったように振り返る。
これはあえて言えば、ある意味でそこら辺の野良と大して変わらない程度と思っていたとさえ換言できるかもしれないし、
実際に道端の野良が亡くなっていても、それはそれとして致し方ないことだと、よくある日常の光景の一部として普段は理解していたものだ。
ところが、2020/6/7 22:08。突然の訃報を聞いたとき、ほんとうに、ただただ悲しかった。どうしてもこれ以外の言葉が見つからない。
当然に離れた場所にいて、直接看取ったわけではないのにもかかわらず。
ほんのつい数時間前まで、確かに私はあの子が闘っている姿を見ていた。飼い主の家族が駆けつけるのを必死に待つ姿を確かに見ていた。
実に文字では言い表しがたい感情だ。これはむしろ、私が看取ることが出来なかったからなのであろうか。疎外感?無力感?いいや、違う。
同様に肉親が亡くなったときともまた違う、しかし経験上、それに並ぶほどの深い深い哀しさとだ。
おそらく、今までの自身の至らなさや、不甲斐なさへの後悔の念も入り混じっていたことだろう。
ペット、というものの最期を実質的に初めて身近に経験するから、という部分もあるだろう。
しかし自分でも全く思ってもみないほどに、実に大きな喪失感を覚えた。
これは哀しさと呼んでいいのだろうか。いまは、飼い主や家族の方が、遥かにつらい心境でいることは想像に難くない。
なのに私があの子に対して悲しんでもよいだろうか。それを認めてくれるのだろうか。
資格、といっては大げさか。ただそうは言っても、私は最後の瞬間までそばにいてあげられる存在ではなかったのだ。
今日の別れ際、呼吸が整わなくなって横たわるあの子にそっと声をかけ、月並みな約束をした。
また必ず遊ぼうと、もっと仲良くなりたいと。少なくともこの言葉に嘘はない。
いずれにしろ私は、この気持ちをいつまでも大切にしたいと思っている。またいつか、どこかで会いたい、必ず。
それまでは、しばらく安らかに眠っていておくれ。ほんとうにおつかれさま、ありがとう。