よつまお

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ハラスメントで考える多様性の重要さ【セクハラ/パワハラ/モラハラ】

四方山話シリーズ。ハラスメント、といえば代表格として昔から代名詞なのが、セクシャルハラスメントだ。

 

以前は、自身の立場や権限を利用して、相手方に要求を飲ませ、不利益や損害を被らせることを指していたが、

どうも最近は立場が上か下か、要求が有る無し等に関係なく、相手方が蔑視や差別されているのかどうかや、どう感じるのか、を重視しているようである。

 

掲題のパワハラやモラハラはじめスメハラ、マタニティーハラスメントいわゆるマタハラなど、様々なハラスメントが定義・登場していて、一種のポリティカルコレクトネスのような息苦しさを感じる者も少なくないだろう。

 

(例えば「ハラミ会」や「クリスマスソング中止」など一見フェイクニュースと見まごうようなネットニュースが賑わせたのは記憶に新しい。ポリコレやフェミニズムは必要な立場だとは思うが、一体どこに向かっていくのだろう。LGBTやMeToo運動など、問題は複雑化しつつある。)

 

そこふとで思うことがある。ある種の言葉狩りをこれからも行っていくのなら、どうも最近の流行りとして見過ごせない言葉がある。

 

子育てする父親を「イクメン」ってなんですか?

子育ては基本的に夫婦が行っていくものだ。しかしその理想や建前は、現実的にすべてが母親、つまり主婦へ押し付けられてきた。

 

しかし徐々に社会における育児環境が改善の兆しをみせてきたことによって、父親も子育てに参加するようになった。

それを世の中では「イクメン」というわけだ。実に、実にバカバカしい。

 

先述の通り、最初から子育ては夫婦両方が協力の元に行うのが当然のものであって、むしろ今までの男性が「イク児しないメン」だっただけのことだ。

逆に母親に対して、「イクママ」とは決して言わない。もともと母親は育児をするのが当たり前、という価値観が蔓延していたからだ。実に、実に差別的な話だ。

 

もしイクメンという言葉を一般化するのであれば、育児する母親のことをイクママと同様に呼ぶべきで、

その逆に主婦があるのなら、対義語である「主夫」ひいては「男性の家事手伝い」も一般的であるべきである。それこそが真の平等のはずだ。

 

被害者がいないからあるいは被害を訴えないから、何も対策しないというのは、逆に声が大きい者と声を出す者だけ助ける、という実に偽善的な行いだと思っている。

 

しかし現実として平等はおそらくありえない

と、ここまでは建前や理想の話。たぶんこれからも男女社会は変わっていかないのだろう。いや、それを目指して日々活動や運動している人々のことを決して無駄とは言わない。様々なハラスメントの渦中にいる人への救済は、不可欠なのは自明だ。

 

しかし男女、いやむしろ人間なんてそんなもんだろうということだ。

例えばなぜ小中高では「いじめ」が問題となって、なぜ「大学」ではあまり聞かないのだろうか?高校から大学までの間に、人間としての位階が数ランク上がるのだろうか?

 

いや、違う。単に小中高までは、地域や学力が同じ程度という「だけ」で、全く別ジャンルの人間同士が濃密に接し合っているからトラブルが起きるのだ。

 

人同士は集まれば必ずマウンティングが始まるといっても過言ではない。

近年では、同じ経産婦でも、それが自然分娩だったか帝王切開だったかによってラベリングされることが話題となり、女性のみならず男性も巻き込み賛否の論争となった。

帝王切開による出産など当然昔からあったのだが、昨今のSNSの隆盛によって問題が可視化・顕在化したからであろう。

 

もし仮に、この「痛みを感じた方が偉い」的な価値観が蔓延しているのだとしたら、実に馬鹿らしい話だ。肉体的にも精神的にも、痛みなど何の利益にもならない。

 

しかしだ、こういったある種の男女分断、あるいは人間分断とでもいうべきネット上で見られる極端な言論には、迎合せず一定の距離を置きたいとも思う。

 

なぜなら「多様性」を阻害しかねないから

ネット上にはこういった類いの「男女」や「同性」間の分断を意図しているのではないかと陰謀論を抱いてしまうくらい、カオスな言論が文字通り混沌としている。

しかし現実社会ではどうだろう?みんな毒舌ばかり吐いているだろうか?

そう、表ではみんな仮面をかぶっている、猫をかぶっているのだ。これはこれで良いのだと思う。

 

もし同じある一つの価値観に全てが統一されてしまう、というのは実は恐ろしいことだと思う。みんなが色んなことを考え、全く意見の合わない人間がこの世には存在する、それが自然なのだろうと思う。それが少しずつ統合、そして淘汰と再分裂を繰り返しているのが、人間という種だ。

集団からのちょうどいい孤立とちょうどいい距離感がこれからの最善の生き方だろう。

 

例えばだ、私は昔、いずれ世界中の「苗字」は統一されてしまうのではないか、と危機感を抱いたことがある。

もし男女どちらかの姓を受け継ぐのが婚姻における一般なのだとすれば、原理的に苗字は減ることはあっても増えることはないからだ。

しかし、現実として世界は広い。苗字は世界中に数多く存在する=つまり多様性が確保されているからこそ、おそらく私が心配することは起こらないのだ。

 

似たような話で、「母の味」や「家事のやり方」もいずれ統一されないか、という危惧があった。

ほとんどの婚姻関係において、「料理の味」や「家事のようなルーチン」は妻が主導権を握っている。そしてその妻がどうやってそれを受け継いできたかというと、たいていは「母」を見て育ち、それを模倣している。

 

つまり「父」や「夫」がほとんど影響因子として関係ないのだとすれば、いずれ「好みの味」や「家事のやり方」も統一されていくのだと思っていた。

しかし、現実としてそれも違う。さまざまな「ランダム要素」がそこには存在するからだ。

 

そう世界は、人間は、「一定」の多様性やランダム性を内包しているからこそ、面白いのだと思う。そしてだからこそ、さまざまな脅威に対して強いのだ。

もしこれが失われるときは、そこはおそらく綺麗な箱庭という名のディストピアか、あるいは人類が滅亡するときだと思っている。