よつまお

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「疑似科学」には注意しよう【ニセ科学の罠と対処法】

疑似科学という言葉をご存知だろうか。これはエセ科学、ニセ科学とも表現されたりするもの。

 

この擬似科学とは端的に言って、根拠が極めて脆弱か、あるいは非常に結論が疑わしい、科学を標榜した「まがいモノ」のことだ。

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例えばヒトの医療分野で言えば、多くの民間療法がそれに相当する。

 

もちろん中には、古来から「体に良い」とされていたものを研究した結果、実はこんな科学的根拠があった、ということもしばしばある。

 

しかし、いわゆるガン治療におけるそれが最たるものだが、○○で病気が治った!などという健康法などの誇大広告は後を絶たない。

 

一応「薬機法」(旧・薬事法)の存在があるために、明らかに薬効をうたうことは違法だ。

 

しかしそれでも、例えば「○○が消えた!」などの言い回しに変え、あからさまではなくともそれっぽく示唆されていたり、いわゆる「個人の感想です」などといったエクスキューズを付随して、健康商法は当然のように存在する。

 

こういった事例は、いまやヒトのみならず、ネコやイヌなどのペット業界においても、非常に多く蔓延しているのが現状。

 

病気を治したいという心理や、健康でいたいといった願望につけこんで、怪しげな商品を売りつける健康商法は手を変え品を変え、今日もどこかで被害者を生んでいる。

 

ここでは、そんな疑似科学やニセ医療たちを取り上げる。

 

ニセ科学とは

理性的に考えて、もし巷のちょっと高価な健康食品やグッズなどで病気が治るのであれば、医師も病院もこの世に必要ない。

 

もしそういった革新的な健康法があれば、とっくに一流の研究者が権威のある大学や企業の研究室などで、実用化に向けて成果を出していることだろう。

 

大抵こういう場合、医者や、ひいては医療業界や製薬業界が不当に儲けているという陰謀論的なストーリーが付加される。

 

確かに構造的に何ら問題が無いとは断言できないものの、それはあまりにも性悪説に傾きすぎであるということを、リテラシーある多くの人々は気づくことだろう。

 

むしろ、病の根絶は全人類の悲願でもある。他方で、病は生き物としての宿命でもある。

 

いまを生きるほとんどの人々は、身近な人やペットなどを、何かしらの病で亡くすという不幸を経験していることだろう。

 

あるいは、何らかの病の苦痛や不快感に、今もさいなまれているかもしれない。

 

だからこそ、多くの研究者や医師は、そういった苦痛や不幸を少しでもこの世から無くすために志したはずなのだ。

 

しかし、それでもなかなか状況が改善しない心の隙間に、偽科学や似非科学は忍び寄る。

 

まがいものを見抜く

確かに、以前までの常識が今は非常識になるということは、日進月歩の科学や医療において起こることを、ヒトは知っている。

 

一方で、そういったブレイクスルーや奇跡的な快挙は、そうそう起こらない、ということもヒトは経験的に知っているはずだ。

 

あえて極論を言えば、(巨悪であるはずの)標準的な医療の元から外れ、何かの病が完治するかのようにほのめかしているモノの方が、よっぽどお金儲けのためなのだ。

 

あるいは、いわゆる「信者」獲得のため、とも言えるかもしれない。

 

とはいえ、「カガク」について専門的な教育を受けていない多くの人々にとって、それが果たして本当のことなのか、嘘なのかを見分けることはたやすいことではない。

 

しかしここで大きなポイントがある。

前述のように、ニセ科学を主謀する人は大抵善意でなく、短期的なおカネや中長期的な顧客の獲得が目的の根本にある。

 

(ただし末端でそれを普及しようとしている人は、本当に心からそれが良いモノだと信じていることが問題をややこしくしている。)

 

だからこそ「分かりやすさ」に注意すべきなのである。

 

分かりやすさの罠

広告として機能し、ヒトを呼んだり、おカネを集めるためには分かりやすくなくてはいけない。

この点においては、疑似科学は非常に上手く、一方で本当の科学の方は反省すべきかもしれない。

 

そんなニセ医療の多くは、誰もが経験のある中学生までの義務教育レベルの理科の知識を駆使する。

 

そのため「誰もが分かりやすく」、一見もっともらしい雰囲気を感じてしまう。

しかしそこに、目新しくそれっぽいカタカナ語のウソが巧妙に混ぜられていたり、ちょっとした論理の飛躍を積みかさねられていくのだ。

 

ということはつまり、裏を返せば、中学レベルの知識であっても矛盾が見つかり、反論可能なはず。

 

落ち着いて考えれば分かるはずのそこが見えなくなってしまうのは、何かの苦痛を取り除きたい、とか病を治したいなどという思いによって、自身の視野が狭くなってしまっているだけなのだ。

 

ヒトは「今までにない」というキーワードにも魅かれる。それが自らが悩む病の治癒に関することだと更に興味を持つだろう。

 

そこで「新しさ」に関しても懐疑的になるべきである。

 

新しさの罠

何か画期的な新成分かのように言及しつつ、実は何ら新しものではないこともしばしばある。

 

例えば「IPMP」と聞いて、何を想像するだろうか?

もしも医薬品が好きな人は、すぐに殺菌成分であると分かることだろう。

 

では次に「o-シメン-5-オール」と聞いて、何を想像するだろうか?

もし化粧品が好きな人は、添加成分などとして目にしたことがあるだろう。

 

さて、もし化学に興味がある人は、その二つは全く同じ「イソプロピルメチルフェノール」のことを指していることが分かるはずだ。

 

このように、同じモノをあたかも別のモノかのように表示している場合がある。

かつて匿名掲示板で有名になった「DHMO」はそのトリックを使った笑い話だ。

 

ちなみにIPMPは、古くから使われてきたまぎれもなく有効な成分なので、それ自体の効果は今や疑うものではない。

 

しかし、そういった個々の類似名称を使って、まるで今までこの世に無かった新しいモノかのように宣伝することはおかしいのだ。

 

もちろんそれらは悪意をもってなされているとは限らないが、単語を言い換えることによって、人々を新しいものに引き付ける誘因力が持たされていることにも注意するべきである。

 

単純思考の罠

あるいは国語的なテクニックで、ごくごく単純な結論へ強引に結びつけてくる疑似科学もある。

 

例えば、動物に有害であればヒトにも有害、動物に良いものはヒトにも良い、などという理屈は顕著な例だろう。

 

これも冷静に考えてみてほしい。

では、ヒトが好み栄養価も豊富で、体に良いとされるニンニクやネギは、ネコやイヌにも良いモノなのだろうか?

 

逆に、ネコやイヌにとって有害だからという理由で、食べない人はいるのだろうか?

 

このネギ類は非常に分かりやすい例だが、動物それぞれの間に、実は大きな種の壁というものが存在する。

 

例えば何らか薬の研究開発をする際、頭の中の思考から始まり、実験室の試験管やシャーレを経て、マウスやラットなどの小動物、そして哺乳類や霊長類、ヒトへの治験などという段階を踏んでいく。

 

しかし動物実験で上手くいったモノが、ヒトでは効果が見られなかった、むしろ副作用の方が多かった、という例は枚挙に暇がない。

 

これまで様々なヒトのガン治療の画期的な研究発表がなされても、いつの間にか立ち消えて、いまだ人類がガンを克服していないのは、そういった計算外の例外があまりにも多すぎるからなのだ。

 

逆もまたしかりで、ヒトで有用でなかったり有害であったりするものでも、動物たちには欠かせないモノとなることさえある。

 

ひとつの結果を、単純に他にもあてはめることは出来ないのである。

 

自然由来の罠

確かに自然であることは、健康的なイメージに結びつき、エコがトレンドになるほどモノにあふれ、飽食の現代では、それを愛するナチュラル志向のかたも多いだろう。

 

しかしここから派生して、自然由来の天然成分なら安全、人工的な化学物質は危険、という論には特に注意が必要だ。

 

前項で冷静な視点の大切さに立ち返った人にとっては、ここでも天然=安全論の例外として、フグ毒テトロドトキシンや野草のトリカブトなどアルカロイド系の毒、カビやキノコなどの存在に気づくはずだ。

 

基本的に人体の代謝機能や解毒作用が優秀過ぎるために誤解しがちだが、ヒトが気にせず何でも摂取できるということ自体が異例なのであって、むしろ本来は自然界の方が遥かに毒物は多いのだ。

(だからこそ、ヒトがここまで地球上で繁栄できたとも換言できる)

 

加えてここでは、身近な分かりやすい例として「食塩」を取り上げる。

 

誰もが理科室で習ったように、食塩といえばNaClの塩化ナトリウムを指す。

 

誰かがビーカーで作った食塩も、海水から作った塩も、汗が蒸発してTシャツに白く浮き出た塩も、すべて化学物質の塩化ナトリウムだ。

 

むしろ不純物が混じっていない分、化学合成された塩化ナトリウムの方が安全かもしれない。

 

しかしヒトは、食塩の塩味の機能としてはまったく不要な雑多なミネラルや不純物を旨味として感じ、様々な天然塩を購入するわけだ。

 

おそらく巷の高い塩よりも前述のヒトの汗由来の食塩の方が、多種多様で個性的な風味を醸し出すと思うが、衛生観念的にあまりお勧めできないのは言うまでもない。

 

このように、科学や医療において、天然か人工かといった由来がどうという視点自体があまり意味をなさないのである。

 

「見た目」の罠

広告戦略として分かりやすさが至上命題である以上、イラストや図などが多用されていることが、しばしばある。

 

例えばある商品のアンケートデータの棒グラフ中の数字として、効果あり30%・効果なし70%と書かれていたとする。

 

これをごく普通に解釈すれば、訴求効果としてあまりにも薄く、この商品を買う価値はない。

 

しかしここで「効果あり」文字の方が、大きなフォントサイズであったり、赤色で強調されていたらどうだろう。

 

更にはもし、百分率の目盛などが細工されて、あたかも効果ありの方の棒グラフが、効果なしより大きく描かれていたとしたら、錯覚によって受ける印象はかなり変わってくると思う。

 

さすがにここまで分かりやすい悪質な例はまれだが、ぱっと見の「見た目」で判断してしまうと、思わぬ誤解を生んでしまうのだ。

 

また別の具体例として、これはコスメ製品などのセールスで顕著だが、例えば何か化粧水があったとき、それを使用するとあたかも肌の内部まで奥深く浸透するかのような肌断面の構図を目にしたことはないだろうか?

 

ああいった表現は実際のところ誇大かつ不正確で、もし故意であれば不誠実だ。

 

肌は大雑把に、表皮と真皮に大別されるが、いくら有効成分を「ナノ化」などしたとしても、通常表皮層まででそれは留まる。

(雑菌やウイルスまみれであった野外で、太古のヒトが絶滅しなかったことを考えれば、肌というバリアが如何に異物を跳ねのける能力が高いか分かるはずだ。)

 

それでももし本当に真皮にまで到達するのだとしたら、それはもはや化粧品ではなく「医薬品」となる。

(この類いの商品においては、実験室等での模擬モデルではなく、本当に実際のヒトにおける効果なのか、といった点にも注意してほしい)

 

よく「医薬品レベルの有効成分が~」などといった言い回しがあるが、例えば「メジャーリーガー級」と「現役メジャーリーガー」が別物であると判断できれば、当然に所詮は化粧品であると分かるはずだ。

 

このように、グラフや数字などが添付されて説明されたり、イラストや図を紹介されると、自然と納得感が強まってしまうが、そもそもそれ自体が正確なものなのか、出典はどこなのか、そういった点についても疑ってかかるべきだ。

 

数字の罠

「90%の人が治った」というキャッチコピーを見て、どう思うだろうか?

 

おそらく多くは何か良い効果を期待することだろう。しかしその中身が、実はたった10人中9人に効果があっただけだとすると、かなり印象が変わってくるのではないだろうか。

 

昨今のエビデンス至上主義では、グラフや数字などでデータを示すことは当たり前になってきた。

 

しかしそのデータが、根拠として強固で正確なものであるかどうかとはまた別問題だ。

 

例えば、効果あり・効果なしの2択に見えつつ、実際どちらでもない・やや効果ありなどといった選択肢をどのように扱っているかなど、曖昧性や主観を排除できているかは、数字のみでは分からない。

 

またもしある商品のモニターアンケートで集めた人が、元々その商品に好意的な人ばかりであったとしたら、結果として出てくるデータには必ず偏りなど影響が出てくるはずなのだ。

 

さらに言えば、絶対に効く!と強く信じて使った人は、少しでも何かが好転したように「感じれば」効果があったと答えるし、効くと妄信して実験する側も少しでも効果があったように「見えれば」治ったと表現するだろう。

 

数字として出されたモノの「裏側」が、本当はどうなっているのかに対しても、目を光らせなければならない。

 

思い込みの罠

近年思い込みはプラセボ、プラシーボといった言葉でも知られるようになったが、まだまだこれは疑似科学において蔓延っている。

 

例えば、虫刺されでもなく、アレルギーでもなく、ニキビでもないのに、突然肌が赤くなったり、かゆくなった経験がある人は多いと思う。

 

まぎれもなくそれは皮膚炎というものだが、そのとき何か薬をつけずとも、いつの間にか治ってしまったという人もまた少なくないと思う。

 

このようにヒトでもペットでも、原因不明だったけれどとりあえず治ってしまった、といった自然治癒という現象が存在する。

 

しかしこのとき、その皮膚炎にサラダ油を塗って偶然に治ってしまったとする。

 

無論サラダ油の保湿効果によって、乾燥肌は治るかもしれないが、皮膚炎自体を治す効果はない。むしろ油分が酸化して肌を刺激し、悪化することもあるだろう。

 

だがもしサラダ油が炎症に効くと考えた医師が、前述のような原因不明の皮膚炎患者10人にそれを塗り、その後8人の肌が改善したと判断したとしたら、サラダ油には薬効があると言えるのだろうか。

 

もちろん正体不明の有効成分によって、未知の機序が引き起こされた可能性はゼロではないが、まず医師がサラダ油を塗ったということを知っていては実験として意味を成さない。

(可能性だけを言えば、空気中の目に見えないズンドコベロンチョが治癒させた可能性もある)

 

塗られた側も、塗った側も、それがサラダ油だと知らない状態で初めて、思い込みによる判断の誤りを排除できる。これを「二重盲検法」と呼ぶ。

 

さらに自然治癒といった偶然性を排除し、それを有意なサンプル数で一定期間あるいは複数回反復調査して、その機序までも論を組み立てて公開し、第三者が再現したりレビューなども受けつつ、初めて効果をうたえるのだ。

 

このように、公正な判断のためには、想像しただけでも実におカネも時間もかかり、正確な結果を求められる緻密な作業なのだが、果たして疑似科学商品を売る人たちはそこまでやっているだろうか?ということを想像しなければならない。

 

反論ができるかどうか

さて、上記までは巷の疑似科学風なモノに対しての、批判的なスタンスを展開してきた。

 

もし相手が本当に科学であるならば、こういったものに対して更に再反論し、着実に無矛盾な根拠を積み重ねていけばよいのだ。

 

ある理論に対して、前提や根拠となる何かが崩れれば、それは誤りとして認知され、逆にそこを誰も崩すことが出来なければ、現時点でそれは正しい理論と評される。

 

これを「反証可能性」と呼ぶ。

 

科学が道具主義となって以来、大雑把に言ってしまえば科学は絶対的な真実を表すものではなく、現時点でひとまず多数から正しいと支持され、現象を矛盾なく解釈するための論理体系に過ぎない。

 

そして誤りや不具合があれば適宜修正され、新たに発展していく。

 

だが疑似科学の多くは、その反証可能性を持っていない。

矛盾が見つかっても、大抵は「正しい」「効果がある」という結論があり、常にそこに向かって組み立てられた論理であるため、決して正しさを譲ることをしない。

 

本来、敵である既存医療や科学を疑う精神性があるならば、時に自らの提唱する「カガク」をも懐疑する姿勢はあってしかるべきなはずだ。

 

しかし冒頭で言及したように、疑似科学には陰謀論的なストーリーが付与されているため、反論すること自体をまるでマジョリティからの言論封殺や圧力かのように反発し、許さないのだ。

 

ただし、ここで誤解してはいけないのは、反論そのものが正しいかどうか、はまた別だということだ。

 

例えば、私がここで「地球は丸くなくて平面だ!」と現代科学に喧嘩を売っても、何の価値もない。

もし世界中に私と同じように考える人が100万人いても、それ自体は特に意味もない。

 

なぜそう考えるのか、という根拠とその正確さ、そしてそれが確かに正しいと立証する人が多くいる事柄が、反証としての価値を生む。

(ただこう書くと、いわゆる「数の論理」のように誤解されてしまい、セカイを欺く巨悪がいると設定しがちな陰謀論のストーリーが更に展開されたりする。)

 

現代ではSNSの普及によって、身の回りに起こったことがとてつもなく「大きな声」に見えがちだ。

 

中でもインフルエンサーが言及することは常に面白く、実に興味をそそられるかと思う。

 

しかし同時に、フェイクニュースが後を絶たないように、遥か昔にいわゆる「論破」されているような事柄が、また何かのきっかけで盛り上がったりもするのだ。

 

ネット上の情報は常に先進的なものと考えがちだが、むしろファッション業界の流行り廃りと同様で、現代社会の一世代前のリバイバルを有難がっていることもある、という視点を持っておくべきだろう。

 

まとめ

疑似科学は頭の体操としては実に「良い薬」だ。

 

健康商法を考える人々が、一体どういった手口で懐に入り込んでくるのかを知らなければ、逆に本当に正しい科学とは何なのか、向き合うことは出来ないだろう。

 

また、誤解をおそれず言えば、疑似科学やニセ医療を信じて、それによって誰も巻き込まず本人が心底幸せを感じているのであれば、他人があえて口出しをすることではない。

 

しかし残念なことに、大抵のニセ医学などは個人の満足感のみならず、いわゆる「布教」されることを伴う。もちろんヒトは、自分が良いと思うモノは他人にも勧めたいと思うものだ。

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ただしそれがちょっとした100円グッズ程度だったら良いかもしれないが、もし誤れば他人の健康やペットの健康を害する可能性があるもののだとしたら、軽々しく勧めず、自制すべきだろう。

 

また、仮に100円程度の損だったら、物は試しで夢を買ったとなるかもしれないが、疑似科学の商品は概ね、継続するにあたってそういった良心的な価格設定はなされていない。

(高品質だから、こだわっているから、最先端だから、数量が限られているから、などの理由がよく挙げられるが、高価なこと自体がブランドイメージを担保する戦略なのだ。)

 

さらに、たまたま100円程度の損で済んだ、運よく健康も害さなかった(というか単に効果が無かった)から、と言って素直に喜べることでもない。

 

一度ニセ科学にひっかかった人、信じ込みやすい人、というのは、また次に別の商材を売るための重要な顧客リストになるからだ。

 

「正しい」ことを「正しい」と言うのはとても手間も時間がかかる。文字で書けば長文になり、話せば長時間になる。

 

この記事も、読み飛ばしながら運よくここまでたどり着いても、何ら目新しくしくなく、実に退屈で面白くもないどころか、読み進めること自体が苦痛であったことだろう。

 

その点、いわゆる既存科学に疑問だけを投げかれば成立してしまうような疑似科学は、お手軽でコストパフォーマンスに優れているのだ。正しさの証明より、大嘘を言った方が早いのだ。

 

既成概念が打破されようとする瞬間というものは、ある意味爽快で、実に簡単に、専門外の人があっという間に専門家になれてしまう。

 

それでも誤ったエセ科学にはきちんと「NO」を突きつけるべきだ。

 

エンターテインメントとして楽しめることと、科学としての正しさを両立させることは必要かもしれないが、本来は全く別物なはずだ。

 

優先して救うべきは、いまニセ医学などを妄信してしまっている人たちではなく、これから被害を受けるかもしれない人々である。

 

「免疫」が無い人が、罪のない動物が、新たにその詐欺的手法にハマり、不幸のスパイラルに陥ることは避けなければならない。

 

なおここまで当記事では、一切の「ソース」を示していない。

 

つまり、私が全て脳内妄想で嘘八百を語っている可能性もゼロではないし、もしかするとどこかに巧妙にウソが織り交ぜられているかもしれない。

 

ヒトは真偽ともかく、自らの望む情報を自然と選択しがちだ。

 

極めてスピーディに発展していく現代において、回りくどく思考するよりは、最初から結論を求める。正しさを追求することは端的に言って面倒で、楽しくないからだ。

 

しかし現行科学において、大抵の新しいモノはとうの昔に世界のどこかで既に誰かが試行済みで、その上で棄却されたものであったりするのだ。

 

もし歴史的な新発見が度々あるならば、科学者たちはそうそう苦労しない。

 

見聞きした情報をそのまま鵜呑みにするのでなく、まずは疑い、背景を想像し、気になる点を自ら調べてみる。

その姿勢こそが疑似科学に騙されないための、貴重な第一歩となることだろう。

 

寄稿者:rai